術ヂャーナリズムはこゝへ来て大観号を出して、大観礼讃をするらしい、しかしこれらの美術ヂャーナリズムは多分に追従的であるから大観の正統さを礼讃をするよりも、その五十万円の赤誠を礼讃することに尽きるであらう、二十枚五十万円に売れたといふことは価格的には少しも驚ろくには当らない、画家の作品の金額への換算が、せいぜい一枚二万五千円か三万円だとすれば情けない話である、殊に芸術作品の価値が、金銭価格に換へられない純粋な存在であることを思へば尚更二万五千円は安い売り方だといへる、この金額に驚ろいていゝのは、一文にもならない売れない絵を描いてゐる画家を標準とした場合だけである。
大観は価格として五十万円の赤誠を示した、美術、文学の世界を通じて、これはまた最高の価格的赤誠の現れである、しかしそのことを軽忽には採りあげられない、美術ヂャーナリズムが軽忽に大観礼讃を行つたらおかしなものである。
美術家の中でも従軍して上海で死んでゐる人までゐる、この人の赤誠はいつたい金額にして何程に換算していゝだらうか、文学者の中でも不健康をひきずつて戦蹟慰問や第一線慰問をしてゐる人もある、畳の上に坐つて大観が描いた絵が一枚二万円に売れ、戦地の泥土の中にしやがんで描いた従軍画家の絵が十円に売れたといふことに就いて、これは価格の差を論じてはいゝが、赤誠の差はうかつに論じられない、大観もまたその無名従軍画家も、赤誠において純粋であつたといふことは均しいからである。一枚二万五千円で買ふ人が存在するのである、この人はそれを買つたために破産するわけはないのである。
世の中には芸術の値打を、そのまゝに理解できない人がゐる、それを金銭に換へて始めてわかる人がゐる、「良い絵がないか」と画家のところへやつてこないで「高価な絵がないか――」といつてやつて来る購買者がゐる、百貨店のお客の中でも、一本の帯を買ふにも、値段の最低のところから、漸次高い値段のものに選びすゝめてゆく客と、もう一種類の客は、まづその店の最高の価格のものへ目標をたててそこで選んでゆく客がある、資本主義の世の中では、価格の高いものほど優良なものといふことになつてゐる、夏蜜柑は酸つぱいものをクーといつて嫌ふ人があるとすれば、それは夏蜜柑を一個、五銭か十銭のものより買つたことがないからである、一個十五銭も、十六銭ものいちばん高いものを買へば、夏蜜柑もなかな
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