か甘いものである、ただ芸術哲学などといふ精神的分野に於いてだけ、価格とそのものゝ質とが必ずしも同一ではない、いまこゝに千万円の金額を積んでも、一哲学学生の考へ方を訂正させることが不可能な場合があるのである。
横山大観の赤誠礼讃はいゝが美術ヂャーナリズムが大観の芸術の正統な理解を同時にしなければ無意味であらうと思ふ、大観の何処が偉いのだらうといふ、大観再認識を行ふ必要がある、五十万円の情熱は容易に理解できよう、しかし大観の芸術の理解はそれほど容易ではあるまい、大観の偉さといふのは、筆者に言はせれば、彼が日本画の伝統と運命を共にしてゆくといふ態度の偉大さだと思ふ、そのことを彼のために理解してやらないのは可哀さうだ、政治的大観、画策的大観、主将的大観さういふ印象を一般人にふかく印象づけられてゐて、作品的大観はこれらの通俗的なものに掩はれてゐる、今度とにかく二十点といふまとまつた作品の展観に接することが出来たといふことは、大観の作品論をするに絶好の機会なわけだ、大観の今回の個展は最初美術ヂャーナリズムはまことに冷淡であつたのである、ところが大観個展をみた一般大衆が、その作品の佳さの正統な騒ぎ方をした。私の知つてゐるかぎりでも一家族揃つて見に行つて感心してきた人もこそあるが、大衆が騒ぎだして美術ヂャーナリズムが慌てゝ追従始[#「従始」に「ママ」の注記]めたと見ても過言ではない。
日本画と運命を共にしてゆくといふ作家は横山大観であるが、彼の場合はその伝統的諸形式に対する精神的圧力の加へかた、その形式の新しい手段への換置など、なみなみならぬ苦心が払はれてゐる点を見落すことができないだらう。
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問題の日本画家
堅山南風小論
○…日本画家のことごとくが、不勉強だといふわけではない、しかし日本画壇のうちで、誰が勉強家だといつて、堅山南風の右に出づるものはあるまい、従つて彼の作品に、多少優等生的なところがある、相当に思ひきつた描き方をやつてのけるが、結局カチンと全体をまとめてしまつて、自ら動きのとれないものにしてゐるのは残念だ
○…彼こそ徹底した技術主義者だらう、だから、細かい部分になど特別な工夫が凝らされてゐて、画学生が南風の絵の前で、うんうんうなりながら彼のテクニックに感心して見入つてゐる会場風景などをよく見かける
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