この質感の出し方は非凡なものがあつた、たゞ魚の頭部のボカシ、偶然性に甘えすぎた日本画のやり方の特長的な紙面への絵の具のニジミ方が過度で失敗してゐる、紙に筆を触れて、そこに予期しない滲みを出すといふ偶然性を、あまりに日本画家は頼りすぎはしないか、作画上に偶然性が入つてくるといふことは拒否はできないが、この偶然性を必然的なものに転換し、置き替へるといふところに、作画上の正統と、作家の実力とがある、洋画家の場合もこの偶然性が最近殊に著しく作画方法として入つてきたやうである、一枚の白い紙に出鱈目に絵の具を滴らし、その上に他の一枚の紙をのせて掌で押し、それをはぎとつてそこに現れた予期しない形態画を指して、デカルコマニーと名づけて楽しんでゐる洋画家もある、絵の具の滲みは、勿論紙質や、訓練に依つて、日本画家の場合は偶然的と許り言へないものがあらうが、方法の出発点として正しくないばかりか、単純に『味』を訴へるには効果的であるが、その方法が偶然的であるだけ、その味も具体的でなく、効果の時間的永続性がない。
『黄沙白草』は斜面の山の前方に描かれた樹木の墨色の良さは、洋画家の使ふコンテの色彩に似た溌剌性がある『菜根』は俗臭ぷんぷんたるもので、こゝでは全く新しい制作の良心が少しも加へられてゐるのを発見できない、『木瓜』の樹や、『鳩』の樹は自然物としての樹の枝ぶりが、あまりに日本画風な約束に触れすぎてゐる、その枝ぶりの描き方にどれだけ深淵な古来の日本画描法の理論をひきだしてきたとしても、現実的にはすでに近代人の感覚は、このきまりきつた枝ぶりをきつぱりと否定し去るだらう、木の形態の選び方に日本画としての規定があることは認めるが、それに反撥して、我々の気づかなかつた形の新しい発見を画家の努力的な紹介をしてほしいものだ。上にのびた枝が下にをりて、また上にあがつているといふ形の観方は、なるほど自然の方則ではあらうが、自然の法則を、絵画の法則として最初に取り入れた人は偉いが、いつまでも方法として固着させてをくことゝ闘はれていゝ筈である。
『鯰』は場中で出色のもので、鯰のヌラリと尾を静かにうごかして泳いでゐる描写は、この作者の特長的な細密描写の迫真性とはちがつた、線条の効果とは違つた、色彩と面のかけ合せの効果を示してゐた、『鯰』といふ奇形的な魚の個性に執着せず、自然にのびやかに観察してゐる点却つて観る者
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