の自由な観賞に委ねて効果的である、前進してゐる鯰の鼻ツラの辺りに、水の衝突をかすかに描いてゐるのが、静中動ありの雰囲気がでゝゐる墨色の美しさは、新しい感[#「感」に「ママ」の注記]能といふよりも、桂月といふ人の年功を経た感[#「感」に「ママ」の注記]能として、また別種の新しさがある、この新しさは個展画中の淡彩物の、色彩にまたそれを発見することができる、墨一色から墨色の段階を発見することは、感覚的に可能であつても、いざそれを具体的、科学的に分解するといふことは容易ではない、淡彩では青とか赤とか黄とか色が分類されて現れてゐるために画家のもつてゐる感覚的分類もそこから容易に発見できる可能性をもつてゐる。
桂月氏の淡彩のロマンチックな感じは決して、ナマなものではない、墨の写実性を超克した、そこを踏み越えてきた青の洗練された美、赤の洗練された美といつたものがある、それがロマンチックな色であるといふ意味で、非現実的であるのではなく、墨色の果せない立場を淡彩で果してゐるといふ意味で決して甘くはない、何時か雪舟の山岳画を見たことがあつたが、黒一色で描いた写実主義の精力的意慾的な態度は頭の下がるものがあつた、ところでこの黒一色の絵の極めて端の方にだけ雪舟は色を用ひてあつた、何故彼は黒一色で描き終ることをしないで、青とか赤とかをちよつと許り加へたかといふことを私は考へてみたが、墨許りで描いてゐるといふ生活の中に、墨で果せないものが最後に残されるのではないか、黒一色の追究といふものは、黒の世界といふ制約と、観念上ではその絶対化の過程を辿らなければならない、黒だけで幾千種の或は赤だけで幾万種の多数な、赤の段階をその画家が発見したとしても、他の色彩をひよいと使つてみるといふ本能が働くといふ時もあるだらう、雪舟が黒に少量の他の色を加へなければならなかつたといふことに、彼の人間的な本能と、敢てそれを実行してしまふ人間味と、同時に色彩の観念上の絶対化は必ず破れ去るものであるといふことを私はその時痛感したが、極彩色の日本画に対立的に、黒一色の日本画家といふ風に対立を絶対化さず[#「さず」はママ]、南画家であつても自由に色彩の分類的である意義を正しく理解して、自由に色を使つていゝのではないか、淡彩ではなく、時には極彩色の個所もあつてもいゝのではないかと思ふ。桂月氏の色彩が黒の他に他の色彩の魅力を黒同
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