的に問題にしなければならないだらう、殊に新しい批評の難かしさは、後者に多くかゝつてゐるやうである。
桂月氏の小品展から受ける感じは、日本画の技法馳駆の曲者の展覧会といふ感がした、同じ曲者でも横山大観氏の水墨などをみると所謂その『曲者性』がヱゴイストらしい、観る者がどのやうに見ても結構といつた、投げやりの無責任さを発見する、桂月氏の場合には、筆者以外に外部世界として観賞者が存在するといふことなどは、一向お構ひなしに、押しの一手でゆくといふ大観式の曲者性とは全く違つた読者に対する誠実さがある、この誠実さや、見てゐて好感を与へる点は、桂月氏の作家態度、描く自然物に対する接触の方法が与へたものである。
作者の曲者性を発見するとすれば桂月氏は何にもかにも『細かく描いてゐさいすれば間違ひはない――』と考へてゐる点であらう。『雛鵞』では鳥の量感を巧みに出してゐる以外に、動いてゐる細かなふるへと、鳥の毛の柔らかさとこの場合、量と運動と質感との三つの絵画上の重要なものゝ、巧みな結合を果してゐる、これに反して『長門城』を仔細にみると、水は描写が細かい割に、稚拙であり、言ひかへれば無神経な描き方であり、静的に固定的であり、何の水らしい伸びもない筆者の観念の硬化状態で描いてゐる、水の描写はその方法を徹底させてゐる、ところで水をとりまくところの樹木を線の交錯的な方法で、動揺的に描いてゐるといふ、一つの矛盾を発見するだらう、この矛盾とは、俗に水は流れ去るものであるといふ意味で、樹木や山よりも動揺を与へて描くといふことが普通であるが、その方法を採らず水を静的に描いて、それをとり囲む樹木をそれよりも確かに動的に描いてゐる、この桂月氏の矛盾の方法は、『長門城』の画面を不思議なことにはその方法のために、『水』が却つて激しく動き流れてゐるといふ効果をもたらしてゐる。
早く飛んでゐる飛行機を映画化すた[#「すた」に「ママ」の注記]めに、飛行機を固定さしてをいて、背後の雲を早く移動させるといふ映画のトリックを想ひ出したらいゝ、自然の真を衝くためには、嘘をつくことをゆるされるといふ場合はさうした場合を言ふのであらう、そこにも桂月氏の曲者的なところがある。『海物』では二種類の珍妙な魚を描いてゐるが、魚の肉の痩せた部分と、肥えて充実した部分の、一種の段落ともいはれるべきものが、表面の魚の皮を透して描かれて、
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