全に近い程にも感性的に、物質の変容(美術的表現)を行つたといふ点にある。
私の考へでは、モヂリアニに対する一般の理解は単に彼の奇矯にのみ興味をひかれてゐるし、彼に対する理解は浅いと思はれる。真個《ほんとう》の意味での彼の理解では、絵の主題の上では社会的意義の分析に立脚することと、彼の制作の専門的な理解の意味に於いては、彼の制作法の科学的な分析に入つてもよい時代ではないかと思ふ。日本画の材料と、洋画の材料とのそれぞれのもつ特質や、制約に対して何の思索的方法を探らずに、心理的にはごつちやにして仕事をしてゐる日本人が少くないのを私はモヂリアニの油絵具の美しさを前にして特に痛感するものである。
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松林桂月論(一)
日本橋『三越』で開かれた松林桂月氏の小品展は桂月氏の平素抱懐してゐるところの、日本画の新しい写実的方向の開拓といふ点で、桂月氏の努力に敬意を払つていゝものがあるだらう、我々は洋画といふものを度外れた支持の仕方をする必要もないと同様に、日本画即ち古い絵画形式――といふ風な概念からも遠ざかる必要がある。洋画対日本画の問題は非常に難かしいのだ、それと日本画は日本画の内部に於て、幾多の矛盾と、反撥との問題を抱含してゐるから、それぞれの制作上の制約性を、肯定してかゝらなければ、一言半句も批判めいたことを言へないのである。敢て桂月氏を老大家とすれば、最近問題になつてゐる福田豊四郎氏や吉岡堅二氏は少壮気鋭の作家と言ふことができよう、深尾須磨子氏が福田、吉岡両氏の帝展作を、日本画の新しい傾向として驚嘆的に賞めてゐたが、事実福田氏や吉岡氏は洋画界のシュールリアリストやアブストラクトにも劣らぬやうな仕事を、然も日本画の世界でやつてゐるのである、そしてこの二人の作品に対する理解は観者の近代的な観賞上の拠点から同感できる、ところで桂月氏のやうな、南画的な封建性を潜りながら、何かしら新しい仕事を企てゝゐる人の作品から、如何にして進歩的部分を発見したらいゝだらうかといふ問題が、新しく観る者の態度として要求されてくる。
日本画の私有を企てる資産家や、売買本位の画商の観賞態度とは反撥して、我々は我々の観賞の方法をもたなければならない、吉岡氏とか福田氏の日本画の新しい方向と関雪とか桂月とかの新しい方向とは、必ず何時も両端のものとして、同時
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