と端麗さとを与へ、長い首の描きかた、そこに載つかつてゐる顔はさまざまな顔である。『玄関の子供』の少年の人生苦の顔、『マダム・ヱビュテルヌ』の清浄で性慾的な顔、それは人物の右頬から顎に至る線で完全に表現されてゐる。その頬の肉線はカッチリと充実して皮膚の下にうごめいてゐる。顔と首の表現の誇張感はモヂリアニ一流の人物の手を交叉させることに依つて、完全に画面を調和させてゐる『シュミーズの女』の表情の淫蕩性、『若き娘』の疲れたる愛慾の闘士といつた表情、この絵の胸のあたりのタッチの狂熱性は極度にモヂリアニの熱情を知ることができる。たまたま、このタッチの狂熱性が沈潜して内部的な情熱となつて『裸婦』に現れるとき、豊淳な性や、重厚な性に悩む女を描く。殊にをどろくことはモヂリアニの描く肉体(物質)と光りとの接触、光りの交換である。
 こゝでは彼の企てた『硝子のやうな透明感』また、東洋の七宝のやうな光りのけんらんたるアラベスクを現出してゐる。光りと物質との区分の機械論者の多いアカデミーな画家達にとつては、油絵具といふ一物質に就いて『思索』したことなどは恐らくあるまい。アカデミーの画家は油絵具の処理の仕方は成程経験者で苦心的である。つまり、描く順序の練達者である。だが、一度『現実の順序が違つたものに』などぶつかると、これらのアカデミックな画法の順序は何の用にもならない。したがつてこれらの古典画家、或ひは若い古典画作り達は、成るべく平穏な非発展的な、順序のよい、己れの描きやすい方法に添つた対象をのみ選んで描く。モヂリアニの物質としての『油絵具』に対する大きな思索は並々ならぬ深いものがある。
 その点をあまり人々は考へてゐないらしい、美といふものは、物質の中に他の超物質的根元が肉化することによる物質の変容であるといふ――定義をいま仮りに正しいとすれば、モヂリアニの調色の方法は『物質』(絵具)に他の『超物質的根元』いまこれを『光り』や『色彩』と見よう。これの混然たる肉化の苦心がとられてゐる。素描家としてのゴッホには、驚くにたりない。然し、色彩家としてのゴッホには驚嘆して良い。それと同様に我々はモヂリアニの小市民的哀愁や、彼のもつ詩味などに共鳴を感ずるよりも、色彩に対する科学的処理の方法を学ばねばならない。彼の作品から感動をうけるもの、それは油絵具といふ物質的制約と物質的基礎に立つてそれを殆んど完
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