あるといへよう。帝展派の画家の行き詰まりと、最も進歩的でなければならない筈のプロレタリア・リアリズム画家の行き詰まりの状態に相似点のあることは、この種の客観主義者が多いからである。これでは生きて[#「て」に「ママ」の注記]人間が絵筆をもつ必要がない。写真機のシャッターを切つた方が遙るかにましである。
この種のあやまつた客観主義者に対しては、君はそれでは、客観の高さに尾いてくるほど、主観の高さの持ち合せがあるかと、質問をしたい位である。モヂリアニは一見頗る主観的な画家のやうに見えるし、また事実彼の仕事ぶりは主観的な強さが勝つてゐたであらう。だが、彼の出来上つた絵を見給へ彼の絵は何と冷静な、科学性の豊富な絵であらう。
モヂリアニの生活行動の奇矯から察すれば、彼は逆立ちをして絵を描いてゐなければならない筈であるのに、なんと彼はすべての人々に、絵の玄人にも、素人にも、判り易い、尋常な形に於いて表現してゐることであらう。彼の絵から受ける感じをもつて通俗性と呼んではいけない。それは『大衆性』と呼ぶべきである。
そしてモヂリアニの作品に対して見る者をして感心させ、『モヂリアニの絵は、ただ何となく良い』とか、或ひは『何となく好きだ』と言はしてゐる。『ただ何となく――』といふ褒め方はモヂリアニの作品に最もピッタリとした褒め方であり、芸術の褒め方で、これ以上に最上の褒め方はないのである。モヂリアニの作品が見る者に、感性の世界を与へた証拠として、かゝる単純で的確な、無条件的に『ただ何となく――』といふ言葉が人々の口から吐かれる。感性に訴へる画家は、往々にアマチュアとして画家仲間から異端と敬遠とをもつて迎へられるが、この種の優れた画家は、画壇では孤立であつても、彼は直接一般人と結びつくことを知つてゐるし、また、大衆はこの種の画家の芸術的真実をよく理解する。
モヂリアニの芸術の一面性の一つとして数へられるものには『肖像画』が多いといふことである、何故彼は好んで人物を描いたか、横向きでは彼の出世作と言はれてゐる『ヴィオロセールを弾く男』があるが、其の他の大部分は正面向きである。彼は全く横向きを好まないのである。この彼のポーズの選択の仕方はとりもなほさず、彼の芸術探究の真正面向きを語るものである、ひたむきな現実の追究の態度の真正面向きである。
そしてこの人物の正面向きが、彼の絵に厳粛さ
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