れる、百姓達は驚いて、傍の桶の水を、ザアと釜にあけた、そして次の用意のために、水汲隊は谷底へいそいだ。
 旦那は今度は『ぬるい―』とただ一言感想を述べた、百姓達は驚ろき、釜の下の火を掻きたて、薪を加へ、薪とり隊は山奥へ木をとりにでかけた。
『旦那に粗相のないやうに、するだよ』かういひながら村長は折々風呂小屋を覗きに来た、そして湯気の中に陶然と眠つてゐる客人を見て、満足さうに引返へしていつた。
 旦那は懶さうに、『ぬるい―』と云ひ、癇癖さうに『あつい―』といふだけで、百姓達は、水を加へ、火を焚くことを繰り返へし、果ては混乱状態で、薪木隊と水汲隊とは、山と谷とを騒ぎまはつた、その混乱は遂に村会まで開かした、議題は『旦那の湯加減の件』『蝋燭製造の件』であつた、湯加減の件は議論が沸騰し、殴り合つた、旦那の熱い、ぬるいの一言だけで、村中の人が動員されるのは嫌だといふのだ、『蝋燭製造の件』は満場一致可決した、そしてすぐ製造にとりかゝつた、旦那が身動きする毎に、あふれる湯を樋に依つて、一方の大桶に導いた、間もなく桶にはビンツケ油か、バタのやうな旦那の脂肪が沈澱した、それは真甲鯨の脂肪を精製して造つた
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