れる、百姓達は驚いて、傍の桶の水を、ザアと釜にあけた、そして次の用意のために、水汲隊は谷底へいそいだ。
 旦那は今度は『ぬるい―』とただ一言感想を述べた、百姓達は驚ろき、釜の下の火を掻きたて、薪を加へ、薪とり隊は山奥へ木をとりにでかけた。
『旦那に粗相のないやうに、するだよ』かういひながら村長は折々風呂小屋を覗きに来た、そして湯気の中に陶然と眠つてゐる客人を見て、満足さうに引返へしていつた。
 旦那は懶さうに、『ぬるい―』と云ひ、癇癖さうに『あつい―』といふだけで、百姓達は、水を加へ、火を焚くことを繰り返へし、果ては混乱状態で、薪木隊と水汲隊とは、山と谷とを騒ぎまはつた、その混乱は遂に村会まで開かした、議題は『旦那の湯加減の件』『蝋燭製造の件』であつた、湯加減の件は議論が沸騰し、殴り合つた、旦那の熱い、ぬるいの一言だけで、村中の人が動員されるのは嫌だといふのだ、『蝋燭製造の件』は満場一致可決した、そしてすぐ製造にとりかゝつた、旦那が身動きする毎に、あふれる湯を樋に依つて、一方の大桶に導いた、間もなく桶にはビンツケ油か、バタのやうな旦那の脂肪が沈澱した、それは真甲鯨の脂肪を精製して造つた鯨油蝋燭よりもつと立派なものであつた、村会では燈火のない村民の各戸へそれを一本宛配給した。
 次いで村会は開かれた、議題は『旦那を風呂から上げる件』であつた、今度は若い無産派議員の意見で、水汲隊を解散、之を焚木隊に編入、一切釜に水を加へず、さかんに火を焚きつけることに可決した、それを実行に移した、旦那はいつぺんに釜から飛び上り、裸の儘で片足の足の裏を両手で掴み、ふうふう、ふきながら、片足で村中をとび廻つた。

  一婦人の籐椅子との正式結婚を認めるや否や

 ある婦人が、某青年と恋愛に陥つた、当時青年は失業中であつて、何等の経済的な力が無かつたために、婦人はその青年との結婚後の生活に不安を抱き、この事に関して、之を或る親しい一小説家の処に、相談のために彼の下宿を訪れたのであつた。
 婦人は下宿の小説家の部屋に、足を一歩踏み入れるや否や、其処に金文字の洋書、小説評論集の類と、立派な籐椅子、机を発見し、殆んど本能的反射的に斯う言つてしまつた。
『突然ですけれど、妾、あなたと結婚をしたいの、それで今日御相談にあがつたのだわ』
 部屋の中の状態では、彼女の恋人より、この小説家がはるかに経済力が
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