あることを感じたからであり、殊に立派な籐椅子が魅惑的であつた。
 かくして彼女の結婚の最初の予定は変更されたのである。
 翌日から彼女は籐椅子と机とを占領し、夫たる小説家は、チャブ台をもつて執筆机にかへた、意外な事には夫の小説は少しも売れない、その書く小説も余りに純文学的であり、性格もまたこれにふさはしく全く非生産的であることが判り、彼女は激しく幻滅を感じ、従つて夫婦喧嘩の絶え間がなく、金文字の蔵書も、電燈代、瓦斯代にかはり、机も売り払ひ残るところの最後のものが籐椅子一つとなつた時、彼女は離婚を小説家に求めた。
『貴方のやうな、才能なしと一緒に生活してゐても、着物一枚買へやしないわ』
『さうか、別れるのは異議は無いがね、夫婦の愛といふものは、さう簡単に別れていゝものかね――』
『夫婦の愛――、可笑いわ、最初から貴方を愛してなんか居なかつたの』
『ぢや、なぜ結婚したのかね』
『貴方が、もつと経済力があると思つたからよ、お部屋が立派だつたし、本もあつたし、籐椅子なんかおいたりしてね』
『ぢや何んだな、籐椅子と結婚したわけだな』
『さうよ、ついふらふらとね、まさに籐椅子と結婚したんだわ、貴女は籐椅子より機能《はたらき》が無いぢやないの』
『よし、判つた、ぢや籐椅子を呉れてやる、出てゆけ』
『出て行くわよ、立派に女だつて一人で働いて生活してゆけてよ、妾、籐椅子と結婚するわよ』
 区役所婚姻係であるところの本官は――かゝる理由に基くところの、この婦人の籐椅子との正式結婚の届出に接したのであります。
 婦人の意識的なる産児制限は、婦人から母性を喪失せしめ、生活力無き夫との生活は、性生活を営まぬところの、籐椅子との生活と何等変るところなし、とするこの婦人の考へ方は、将来に於ける婦人の結婚に対する、絶望と不安を招来し、真鍮製の大根オロシとの結婚、木製バイオリンとの結婚、石油コンロ、洋服箪笥との結婚等の傾向を示すだらうこと明らかであつて、本官は経済的逼迫が刺戟するところの、あやまれる婦人の唯物思想への転心を憂へるものでありまして、これら無機物との婚姻を、正当として届出を受理するや否や、籐椅子に公民権を与へることの可否に就いて、上司の賢明なる指示を望むものであります。

  『飛つチョ』の名人に就いて

 汽車は崖の間を過ぎ、トンネルを潜り、広い平野を突切らうとして走つてゐた。客車には
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