一団の土工夫の群が乗つてゐた、彼等は東京と函館とで募集されたものだ、彼等は言ひ合はしたやうに髯を蓄へてゐた、彼等の髯は濃く、毛も太い、型も様々で威厳を競ひ合ひ、談笑の間にも、指をもつてそれぞれ個性的なヒネリ方をした。
 彼等にとつて髯は余程重要なものに違ひない、車の中程に腰かけてゐる若い東京から来た男一人だけが無髯であるといふ意味で、この男を他の者よりも惨めに、弱々しく見せた。
 汽車は北海道の奥地へ、奥地へと走つてゐたが、間もなく轟々と水響のする小さなS駅に着いた。
 土工夫の一行は、この小駅に降り、せまい構内を出るとすぐ足下にある谷に懸つてゐる鉄索の釣橋を列をなして渡り、樹林の中に分けて入つた。一行は吉本組××地区飯場で、水力電気の土工工事に働くのであつた。
 若い無髯の土工夫は、飯場に着いてから、三日目に逃げ出さうと企てゝゐた、彼の逃走を感づいてゐたのは、モッコの相手である『源《げん》』といふ男であつた。
 源はまるで弾丸を繋ぎ合したやうな、美事な褐色の体をし、彼の太い八字髯は、大将級の髯の威厳を示し、部屋を圧倒してゐた。
 土工達の争ひが、互に顔を突出しての啀み合に際して、彼等は手を出すに先だつて、まづ髯をもつてセリ合ふ、髯の優劣や誇張的なヒネリ方で勝負のつくものはつけ、つかぬものは、体力で打ち合つて血を流し勝負をつけた。
『おい、若いの、今度部屋に来るときは、俺のやうな立派な髯を生《はや》して来いよ――』
 と源はモッコの引繩を、ヒョイとしやくりあげて、先棒担ぎの若い無髯の土工の力の負担を少くしてやるのであつた。
 四日目の日没頃、この無髯の若い土工夫は逃げだした、二里程逃げて追手に捕まつた。彼はその時隠し持つてゐた猫イラズを、追手の眼の前で嚥み、更に御丁寧にも、釣橋の上から身を躍らして、真逆様に谷の激流に身を投げこんだ。
 一方そのドサクサに『源』が『飛つチョ』した、『飛《とび》つチョ』とは蝗《いなご》のことで、土工夫仲間では脱走の事をさう呼んでゐる、この蝗のやうにみごとに部屋を跳躍してしまつた、さうした出来事は山間の一飯場の出来事として、それを秘密にするとか、しないとかいふ事柄に関係なしに、完全に秘密を保たれた、何故といへば彼等にはさうした出来事は、日常茶飯事に属してゐたから。
 それから幾日目かに、意外にも二人の土工夫は小樽の市街でばつたり行き合つた
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