尽したから悔ひはないよ。
水島は眼を伏せてこんなこともいつた、然し舞台の上の俳優がふつと消えてしまつたのも、気づかずに、広い劇場の座席にたつた一人坐つてゐるやうな、馬鹿げた観客にはなりたくなかつたので、彼はせつせと水島をけしかけた。
或る日、水島は朗かな顔をして下宿を訪ねてきた。
その顔は何事かに感謝をしてゐるかのやうに。
話題は、涯かな遠くの方から出発して、水島自身の恋愛事件に到達した。
水島は前夜、活動常設館に女を誘つて出かけたといふ、二人は活動写真館の三階に陣取つた、この三階は屋根裏で、天井が低く暗かつたので、人眼をはゞかる二人にとつて屈強な坐席であつた。
――男は、女の膝を枕にして、仰向きに寝て足を長く伸ばした。(丁度酔つてゞもゐるやうに)
暗い中では映像が、青い影をいりみだして明滅した。
ちやつぷりん[#「ちやつぷりん」に傍点]が高い屋根から舗道の上に墜落したが、ゴムまり[#「まり」に傍点]のやうに跳ねあがり、折柄通かゝつた貨物自動車の屋根に顛落し、何処といふあてもなく運び去られた。
観客はどつと声をあげて笑つた。女といふものは、笑ふときでも、泣くときでも、怒るときでも、体を大きくゆすぶるものである。
(三)
水島の恋人は、皆といつしよに声をあげて、笑ひ、大げさに体をゆすぶり、いかにもお可笑くてたまらないといつた風に、体を前に屈めて、素早く、膝の上の水島の顔に接吻をしてしまつたのであつた。
そして続けさまに、続けさまに速射砲のやうに、ちやつぷりん[#「ちやつぷりん」に傍点]が尻餅をついたといつては笑ひ、電車にはねとばされたといつては笑ひ、その度毎に彼女は水島に接吻の雨を降らした、喜劇は短かつた次には長い/\悲劇物が映写された。
彼女はしく/\と泣きながら、そして今度は沈着いて悠つくり水島に長い/\接吻を与へることができた。
水島と彼女との恋愛は、活動常設館での出来事以来、活気づいてきた。そして素晴らしい奇蹟が、すぐ眼の前に待ちもうけてゐるかのやうに、水島の眼はちかちかと忙しく光り、また隠れてゐた天才的なものが、いつぺんに顕はれてきたかのやうに、彼は調子づいた奇術師に等しい活動館での接吻がなによりそれを物語つてゐた。
そして悪い友人は、それに油をそゝいだ。
水島と女との奇蹟のために、彼は下宿の自分の六畳間を提供した
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