のであつた。
もつとも親愛なる友人の恋の成功のために――。
彼は昼、会社の事務机にもたれて、二人の恋人の深刻な遊びが、自分の下宿の六畳間で行はれてゐるであらうことを想像した。
――水島、煮へきらないぞ、君の愚にもない人道主義を蹴飛ばしてしまへ、戦闘的であれだ。と彼が水島の背をぽんとたゝいたとき水島はにこ/\笑ひながら、ちらりと決意を見せた。
其日、彼は会社の仕事の忙しさに追はれ、二人の恋の祝福のために自分の部屋を貸《かし》たことなどを、からりと忘れてしまつてゐたが、彼が小路をまがつて、下宿の黒い塀を発見したとき、ふつと思ひ出したのであつた。
彼はあわてゝ靴を投るやうに脱いで、玄関にかけあがつた。
――お帰んなさい。
遠くの方から、下宿の妻君の声が聞えた。
――水島がやつて来たかい。
――参りましたよ。例のとね。
下宿の妻君は、意味ありげに笑ひながら、水島の恋人の、姿態をたくみに真似た道化た格好をし、仰山に手をひろげて、廊下に半身を現した。
――ちえつ。
彼は舌打をした、何処かに隠れてゐた敵意に似たものが、ふつと舞あがつたのである。
そして自分の部屋の前に立ち、その襖をあけようか、開けまいかと、長い間思案をした。
部屋を思ひ切つてあけて見た、しかし何の異状もなかつた。
室の中には、非常に寒い空気が充満してゐたきりで、彼が会社に出掛けた朝のまんまになつてゐた。
机の上には、一日ぢゆうの埃が灰のやうに白くつもつてゐて、水島と彼女とが、きつと花弁のやうに寄りそつて坐つてゐたことであらう、あたりの位置にも何事も起つた様子がなかつた。しかし彼は焦々として室中を見廻し
――眼に見えない、いりみだれた指紋で、室中めちやめちやにしてしまつた。
彼はかうぶつ/″\いつて部屋を出た、そして泥棒猫のやうに、がさ/″\下宿の戸棚を探してゐたがやがて一握りの塩を掴んでき、先づ一番神聖でなければならない机の上に、そして天井に壁に、四方八方に撒いた。
お可笑さがこみあげてきたが、彼はどうしても笑ふことができないので苦しんだ。
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殴る
(一)
俺はつくづくと考へる。世の中の奴らは、もちろん嘘で固まつてゐるといふ事実だ。
情なくなるから、あんまり他人《ひと》さまのことはいふまい。手近なところで、俺の
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