、貴方はどのやうなお仕事をしておいででせうか、一応承つてをきたいのです―』
 すると彼は
『私は医者です―』
 と無愛さうにいふのです
『どこか病院にでもお勤めで―』
『いゝえ、私は臨床医ではありません、なんと説明致しませうか、一言でいへば私は社会学的立場に立つてゐる医者です、ある肺病研究所に勤めてをります―』
 といふのです、彼は普通のお医者とはちがふのでした、検温器を病人の脇の下にはさんだり、胸をたたいたりはしないのです、日本国中にどれだけの肺病患者がゐて、それがどんな数字的な割合で、殖えたり、へつたりするか、それを調査研究する医者であつたわけです。
 この医者は、最初をそろしく馬鹿丁寧に私の議論を反駁始めました、私はそれに輪をかけて馬鹿丁寧に答へたり、切り返したりしましたので、彼は焦々始めました。ついにかういふ言葉を議論の中に挾みました、
『失礼ですが、あなたはもつと自然科学に就いて、お調べになる必要があります―』
 と私にいふのです、『お調べになる―』とはこゝでは明らかに『勉強しろ―』といふ意味なのです、この辺から二人の議論はだんだん丁寧さを失ひ始め、感情的になり始めました。
 私は議論の最中に、ちらちらと彼の男の傍の女に眼をやりました、彼女は薄笑ひをしながら、はつきりと中立的立場をその表情に現はしてゐましたが、却つてさうした態度の中には何か不自然な憎らしいものがありました。
 二人はとうとう激論になりました、洋菓子店を見渡すと、最初興味深さうに二人の話をきいてゐた三人組の私立大学生が、議論の激しさにあきれて店をとびだしてそこに居なくなつてゐた程です。
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徴発


 ○新聞記者が夜、兵士の宿舎にやつてきて、彼は『おい徴発だ――』と叫んだ、すると兵士はわれ先にと飛び起きて新聞記者に尾いてくる、一同はある一軒の支那の豪商の家にやつてきた、門が幾重にもある、その家には下僕が三十人もゐた、そして震へてゐた。
 づかづかと奥まで土足で押しあがつてみると奥室に一人の老爺をそらくは七十位だらうが、端座して立派な仏壇の前で祈つてゐたが、この新聞記者は、多少彫刻をやつてゐたので、まつさきに老爺が念じてゐた仏像がなみなみならぬ作であることを見てとつて、通訳を通じてまずこの仏像(恐らくは高価であらうところの)を譲つてくれといつた。

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