に、わしは答へることができなかつた、アハハと笑つただけであつた、ところでプーリは文字を解してゐるので、しかしすべての犬が文字を解してゐるとは信じられない、いやいや或は人間の知らない処で、すべての犬共が新聞を読み、時局を論じてゐるのではないだらうか――』
そのとき新聞を畳み終つたプーリは、新聞をその場にをき、犬小屋に再びもぐりこむために立ちあがつた、博士はもうたまらなくなつて犬にむかつて質問を発しないわけにはいかなくなつた、博士の学者的良心が眼を覚ましたのだらう、
『すべての犬はなぜ新聞を読まないのか――』
と叫んだ、プーリは穏やかな表情をして、じつと博士の覗き穴をみつめてゐたが、その顔は、曾つて博士がプーリの表情の種類を知つてゐる限りでは、全くたゞの一度も見かけなかつたところの尊厳で、厳粛にみちた顔であつた、そしてプーリは低い声で何事かを答へた。
この聴きとりにくい声を聴かうとして博士は焦らだつた、
『先生――、犬はなぜ新聞を読みませんか――』
と博士はプーリに向つて、再び質問を発した、途端に博士はすべての精神も肉体も財産も肉親もあらゆる所有を失つたやうな寂寥に襲はれて、『先生』とはなんといふこと葉だ、しかもそれは犬が博士に向かつて言つたのではなくて、博士が畜生である犬に向かつて言つた言葉であつた、博士は学問的主従関係の上でも、先輩にむかつて、いまだかつて××さんとは呼んでも、『先生』といふ敬称で呼んだことは、ただの一度もなかつたのであつた、犬に向つて先生――といふ言葉が無意識に飛び出してしまつたのだ、博士に『犬はなぜ新聞を読まないか――』と女中風情に研究の主題を与へられながら、それにはすぐ答へられなかつた上に、いままた犬畜生を先生と呼んで自己を卑しくしてしまつた、学問の権威を失墜させた、『あゝ』(四字不明)[#「(四字不明)」は本文中の注記]から思ふと、ススリ泣きに似た感情が博士を捉へたのであつた、博士はこゝを千どとさながら畜生の学徒にむかつて人間の学徒が戦ひをいどむかのやうに、戦士のやうな努力を、犬に対する質問のために払はうとしてゐた、すべての犬が果してプーリのやうに文字を解してゐるとは限らないといふ、犬が文字を読むことを否定しようとして、博士は覗き穴から叫んだ。
『先生、犬はなぜ新聞を読まないか――』
と博士は覗き穴から再度プーリに質問を発した、その
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