非常に待ち遠しい長い時間であつた、まもなく新聞配達が、玄関の戸のすきまから新聞を差入れる、カサ/\といふ音がしたと思ふと、殆んどその紙の音と同時に、犬小屋の中で寝藁の騒ぐやうな音がした、プーリがごそごそと小屋の中から現れた、博士は呼吸を凝らしながら、プーリの動作を見逃すまいとして、穴からのぞいてゐた。
 犬は高慢さうな顔を高くあげて、周囲をひとわたり眺めまはした、それから片足で新聞を軽く押へ、片足でちよい、ちよいとさはることで、新聞の小さな畳みは、わけもなく大きく拡げられた。
 次は、犬にとつても困難な仕事らしかつた、犬は第一面の広告欄をちらりと一瞥したきりで、その第一面の紙の端に口を近よせ、まるで長いことまるで接吻をしてゐるやうな姿でゐた、するとぱらりと大きく頁が開かれるのであつた。
 犬は強く空気を口で吸ふことで、一頁一頁開くことをやつてゐるのだ、――と博士は観察を下した、プーリは第三面の政治欄は、殊に熱中的に熟読してゐた、何かの仕事を読んで感動したときだらう、片足をもちあげて頭をぼりぼりと引掻いた、すると頭から脱気[#「脱気」に「ママ」の注記]が新聞の上にばらばらと落ちるのであつた。
 犬は大部分をこの政治欄を読むことに費やした、三面記事のトップを、軽蔑的に、ちらりとみるかと思ふと、下段の黒枠つきの死亡広告を読むときは、犬は一層フフン、フフンと軽蔑的に鼻を鳴らすのであつた、ラジオ欄、娯楽欄は黙殺、家庭欄は興味があるらしく、料理に関する記事は熱心に貪るやうに読んで、こゝでは感極まるといつた声でクンクンと鼻を鳴らすのであつた、博士が後に調べて判つたのであつたが、その日の新聞の料理献立表を彼は愛読してゐたらしく、そこには『豚肉シチュー煮、白菜ごま酢』の取合せ献立と『牛肉ソーテ』の料理法がのつてゐた、
『肉を五切に切りわけ、塩、胡椒をふり、フライパンにバタをとかし、強火でその肉を焼く』云々と書かれてゐたから、プーリはそこのところを読んで、鼻を咽喉とをたまらなくなつてクンクン鳴らしたものと思はれる。新聞面のうちで全然顧みない欄があつた、それは四面の就職欄であつた。
 博士は障子の穴から強い視線をプーリの動作に注いだ、犬は一通り新聞を読み終ると、もとのやうにそれを畳みだした、実に上手に畳むのであつた。博士は咳やいた、
『「犬はなぜ新聞を読まないのか――」といふ、女中の質問
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