逃げだした。
飼主が、大変驚ろいて、叫びながら後を追ひかけてきましたが、爺さん牛は腹をたてて
――お前さんは、わしの婆さん牛の手足を、材木を片づけるやうにして、何処へ隠してしまつたかい。
と爺さん牛は、飼主の背中を、ひとつ蹴飛しました、すると飼主は、『ぎやあ』と蛙の鳴くやうな声をだして、其の場にひつくり返つてしまひました。飼主は何時《いつ》までたつても、起きあがらうとせず、ぴくりとも身動きをしないので、爺さん牛は、これを見て、急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひ出しました。
*
――なあ、婆さんや、お前はわしの右足の不自由なことを、百も承知のくせに、わしの身のまはりの世話もしてくれずに、どこを飛び廻つてゐたのかい、この浮気婆奴が。
――なあ、何処《どこ》まで、お前は出掛けたのさ、赤い綺麗な上着も、どこかに忘れてきて
――お前は、急に小さくなつたなあ、こんな吹きざらしの河原で、ひとり何を考へてゐたのさ。なあ婆さんや。
爺さん牛は、かういひながら、くり返しくり返し、河原の石ころの上に、頭ばかりとなつて捨てられてあつた、婆さん牛にむかつて色々のことを質問をしましたが、婆さん牛は、だまりきつてゐて返事をしませんので、爺さん牛は、さびしく思ひました。
爺さん牛は、お婆さん牛が、よほど遠方に旅行してきて、言葉も忘れてしまひ、手足もすりへつて、無くなつてしまつた程に、歩るき廻つてきたのだと思ひました。
そして、その婆さんの、白い一塊《ひとかたまり》の石のやうになつた頭を、蹴つて見ますと
――カアーン。カアーン。
とそれは澄みきつた音が、秋の空にひびきましたので、二三度続けさまに蹴つて見ますと、今度は急に吃驚《びつくり》する程、醜い不快な音をたてて、婆さん牛の頭は、粉々に砕けてしまひましたので、爺さん牛はお可笑くなつて笑ひだしました。
遠くから、たくさんの人々が口々に、
――人殺し牛を発見《みつけ》た。捕まへろ。
と叫んで爺さん牛の方に、走つてきました、中には鉄砲をもつた人も居りました。
牛はさんざん暴れ廻つて、逃げようとしましたが、とうとう捕まつて、この爺さん牛も、婆さん牛と同じやうに、黒い屠殺場の建物の中で、額を力まかせに金槌で殴りつけられて、ひつくり返されてしまひました。
*
――婆さんや、おや、婆さんや、お前はこんな処に居たのかい、わしはどれ程お前を、うらんでゐたかしれないよ。
――まあ、まあ、爺さん、わしもどれほど逢ひたかつたかしれないよ。
爺さん牛と、婆さん牛は、思ひがけない、めぐりあひに、抱き合つて嬉しなきに泣きました。
――どどん、どん。
――どどんが、どんどん。
赤いお祭り提灯が、ぶらぶら風にゆれ、紅白のだんだら幕の張り廻された杉の森の中では、いま村祭の賑はひの最中でした。
爺さん牛、婆さん牛は、その祭の社殿に、それは大きな大きな太鼓となつて、張られてゐたのです。
村の若衆が、いりかはり、たちかはりこの太鼓を、それは上手に敲きました。
――婆さん、わし達はこんな幸福に逢つたことはないなあ。
――わしは、あの丸い棒がからだに触れると急に陽気になつて、歌ひだしたくなる。
――お前とは、いつもかうして離れることがないし。
――あたりは賑やかだしなあ。わし達の若い時代が、いつぺんに戻つて来たやうだ。さあ婆さん、いつしよに歌つた、歌つた。
――どどん、どん。
――どどんが、どんどん。
夫婦牛の太鼓は、七日の村祭に、それは幸福に鳴りつづきました。
お祭りの最後の七日目の事でした。
ひと雨降つて晴れたと思ふまに、凄まじい大きな、ちやうど獣の咆えるやうな、風鳴りがしました。
すると森の木の葉がいつぺんに散つてしまつたのです。
――やあ、風船玉があがる。
――やあ、大風だ、大風だ。
子供達が手をうつて空を仰ぎました。
風船屋が、慌てて風船を捕まへようとしましたが、糸の切れた赤い数十のゴム風船は、ぐんぐんぐん空高く舞ひ上りました。
陽気に鳴り響いてゐた、夫婦牛の太鼓が急に、大きな音をたてて、破れてしまひました。
――爺さん。わしは急に声が出なくなつた。
――うむ、わしも呼吸《いき》が苦しくなつてきた、ものも言へなくなつてきたよ。
――爺さん、またわし達の、ひつくり返るときが、きつとやつて来たのだよ。
――ああ、さうにちがひない、体が寒むくなつてきたな、婆さん。
――では、またわし達は、別れなければならないのかい。
――さうだよ、ひつくり返るのだよ、婆さんまた何処かで、逢へるだらうから、さうめそめそ泣きだすもんぢやないよ。
一陣の寒い、冷たい風が、太鼓の破れを吹きすぎました。(昭2・3愛国婦人)
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トロちやん
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