、泣きました。
 ――婆さんや、お前は何が悲しくて泣くんだい。
 ――爺さんよ、わしもわからないが、かなしくなるんだよ。
 婆さん牛は、小舎の乾藁《ほしわら》に、眼をすりつけて、わいわい言つて泣きました。
 すると小舎の戸があいて、飼主が手に蝋燭をもつて入つてきました、そして大きな声で――こん畜生奴、何を喧ましく、揃つて泣きやがるんだい、おれらは明日の仕事もあるんだから、静かにして寝ろよ。
 飼主は、かう言つてどなりました。
 牛達はそこで、自分達は、何か夜が明けると、悲しい出来事が、身に降りかかつて来るやうな気がして、ならないから泣くのです。と飼主に訴へますと、飼主も急に悲しさうな顔になつて
 ――お前達は、可哀さうだが、夜があけると屠殺場《とさつば》におくつてしまふのだ。
 と言ひました。そして特別に柔らかい草を、どつさり抱へてきて、夫婦牛《めをとうし》にやりましたが、牛はさつぱり嬉しくはありませんでした。
 ――御主人さま、屠殺場といふのはなにをする処でございませう。
 ――そこは、お前達を、殺《や》つつけてしまふ場所だよ。
 ――殺《や》つつけるといふことは、どんなことでございませう。
 ――殺《や》つつけるといふのは、お前達を殺《ころ》してしまふことだよ。
 ――殺すといふことは、どんなことでございませう。
 ――さうだな殺すといふことは、死んでしまふことだな。
 ――死ぬといふことは、どうなることでございませう。
 ――どうもわからないな、実はな、わしもよく、その死ぬといふことがわからないが、まだいつぺんも死んで見た事がないんでな。
 飼主も、かう言つて、小舎の横木に頬杖をして思案をしました。
 ――まあ、たとへばお前達を、その屠殺場といふ、街端《まちはづ》れの黒い建物の中にひつぱり込んで、額を金槌でぽかりと殴りつけるのだ、すると額からは、血といふ赤いものが流れだして。
 すると爺さん牛は、横合から頓狂な声をだして、
 ――旦那さま。すると旦那さまが、毎朝わし達を牧場に追ひだすときのやうに、鞭で尻つぺたを、殴りつける時のやうにして、
 ――あんな、生ぬるいもんぢやないよ、力まかせに、精一杯にな、殴りつけるんだ、お前たちが、大きな地響して、ひつくり返つてしまふほどに殴るのさ。
 ――あ、わかつた、死ぬといふのは、そのひつくり返る事だな。
 ――ああ、違ひない、そのひつくり返ることだよ。
 飼主は、かう言つて逃げるやうにしてどんどん行つてしまひました。
 ――爺さん、わしは妙に、そのひつくり返ることが嫌になつた、どんな具合に、ひつくり返るんだらう。
 ――婆さん、わからんな、これまでにも、わしは石につまづいて、なんべんも転んだことがあるんだが。
 ――こんどのは、あんなもんぢやないんだよきつと、すばらしく大きな音がするんだよ。
 爺さんと婆さんは、そこで牛小舎に、大きな音をたてて、かはるがはる、ひつくり返つて見ましたが、死ぬといふことが、わからないうちに、だんだん東の方が白《しら》んでまゐりました。
     *
 翌朝、早くから二頭の夫婦牛は、小舎から引き出されて、飼主に曳いてゆかれました。
 ――旦那さま、わし達は、その死ぬといふことが、嫌になりました。
 夫婦牛は、足をふんばつて、屠殺場へ行く途中、さんざん駄々をこねて、飼主をたいへん困らせましたが、飼主はいつもより、太い鞭を、ちやんと用意して来てゐて、ぴしぴし続けさまに、尻を打ちましたので、牛は泣く泣く屠殺場へ行かなければなりませんでした。
 ――かーん。と大きな響がして、その響が秋の空いつぱいに、拡がつたと思ふと、額を金槌で殴られた婆さん牛は、お日様の光をまぶしさうに、二三度頭を左右に振つたと思ふと、大きな地響をして、地面に倒れました。
 倒れた婆さん牛は、太い繩のついた、滑り車で吊りあげられましたが、
 ――やあ婆さん、綺麗な衣装を着たなあ。
 と遠くに見てゐた、爺さん牛が、思はず感嘆をしたほどに、婆さん牛の姿は変つてゐました。それは美しい真赤な着物を着てゐました。
 その赤い衣装は、ぽたぽたと音して、地面にしたたり、地面に吸はれました。
 屠殺場の男が、白い刃物を光らして、婆さん牛の、その赤い衣装をはぎだしましたが、ちやうど官女の十二|単衣《ひとえ》のやうに、何枚も何枚も、赤い着物を重ねてゐました。
 ――婆さんは、いつの間に、赤い下着をあんなに多くさん着こんでゐたんだらう。
 爺さん牛は、これを見て急にお可笑くなつたので、腹を抱へて笑ひだしました。
     *
 次は爺さん牛の、ひつくり返る番がまゐりましたが、爺さん牛は、なにか知ら体中が急に寒気がしてきて、ひつくり返ることがたいへん嫌なことに思ひましたから、どんどんと逃げだしました。
 ――やあ、牛が
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