好のよい、青い青いペンキ塗りの船が一艘、静かにくだつて来ました。
――おーい、青い船待つてくれ、わしも乗せて行つてくれ、やーい。
と呼びとめました。
手品師は、急にこの街が嫌になつたのです、それで、この青い船にのつて河下の街に行つて見たくなつたのでした。
青い船の船頭は、河岸に船をよせてくれましたので、手品師は船に乗りました。船には一人のお客さんもなく、がらんとしてゐました。
――船頭さん、わしはこの日あたりのよい、甲板《かんぱん》に居ることにするよ。
かう手品師が言ふと船頭は
――お客さん、其処に坐つてゐては駄目だよ。いまにお客さんで満員になるんだから。
とかう言ふので手品師は、鉄の梯子《はしご》を、とんとんと船底に下りて行きましたが、船底にも、一人のお客もありませんでした。
*
青い船が、下流の街について、手品師が船底から甲板にあがつて見ると、船頭の言つたやうに、なるほど甲板の上は、船客でいつぱいになつてをりました。
この街は、手品師がかつて見たことのないやうな、美しいハイカラの建物の揃つた街でした。
地面はみなコンクリートで固めてあつて、見あげるやうな、高い青塗りの建物が、不思議なことには、その建物には、窓も出入口もなんにもない家ばかりであるのに、街には人出で賑はつてゐました。
手品師は、きよろきよろ街を見物しながら、街の中央ごろの、広い橋の上にやつてきて、そこの人通りの多いところで、職業《しやうばい》の手品にとりかかりました。
――さあ、さあ、皆さんお集《あつま》り下さい。運命の糸をたぐれば踊りだす。
赤いシャッポの人形。
旅にやつれた機械《からくり》人形。
とかう歌つて、手品師がたくさんの人を集めて、さて手品にとりかからうとすると、手品師は、たいへんなことが出来あがつたと思ひました。それは大切《だいじ》な大切《だいじ》な、職業《しやうばい》道具のはひつた、手品の種の袋を船の中に置き忘れてきてしまつたのです。
手品師は上陸するときには、青い船が岸を離れて、下流に辷つて行つたことを知つてゐます。
手品師は、見物人の前でしばらく思案をいたしました。
――さあ、手品師、手際《てぎは》の鮮やかなところを見せておくれよ。
――へい、そんな事は容易《たやす》いことで、わたしは、子供の時からこの歳《とし》まで三十年間も、手品師で飯を喰つてまゐりました。
――それでは七面鳥に化てごらん。
――へい、そんな事は容易《たやす》いことで。
――手品師、蟇に化けてごらん。
――へい、そんなことは、尚更楽なことで。
――それでは、烏になつてごらん。
――へい、なほ楽なことですよ。
手品師は、手品の種を無くして、途方にくれながらも、かう言ひながらしきりに思案をいたしました。
――手品師、お前は手品の種を、なくしたんだらう。
かう見物人の一人が言ひましたので手品師は
――いかにも、みなさん、わたしは手品の種を失ひましたが、種なしでも上手にやつてのけませう。
と言ひました。
青い街の人々は、一度に声を合せて笑ひました。
手品師は、そこでその橋の欄干の上に、立ちあがつて、水もなんにもない石畳の河底につくまでに、黒い大きな蝶々となつて舞ひあがり、もとの橋に戻つて見せようと、見物人に言ひ、そして橋の上から、ひらりと、眼もくらむやうな深さになる河底めがけてとびをりましたが、手品師は黒い蝶々にもなれずに、一直線に河底に墜ちてゆきました。
*
――やあ、手品師が死んでる。
青草の上に、冷めたくなつた手品師をとり囲んで、河岸で子供達がわいわい騒ぎました。
手品師は、眠つたやうな穏やかな顔をして死んでゐました、手品の種のはひつた袋を枕にして、その袋からは、綿細工の鬚の長い人形が、お道化《どけ》た顔をはみだして、子供たちの顔を見てゐるやうでした。(大15・12愛国婦人)
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或る夫婦牛《めをとうし》の話
……私の書斎に、遠くの村祭の、陽気な太鼓の音がきこえてきましたが、昨日からばつたりと、その音が鳴り止《や》んでしまひました。
……この破れた太鼓のお話をしようと思ひます。
*
――爺さんや、わしは今夜はたいへん胸騒ぎがしてならないよ。急にお前さんと、引き離されてしまふやうな、気がしてならないな。
――ああ、婆《ばあ》さんや、わしも胸が、どきん、どきんするよ、きつと明日《あした》は、何か悪るい出来事があるに違ひないな。
爺さん牛と、婆さん牛とは、小さな牛小舎の中に、こんなことを、しやべりあつてゐました、はては気の弱い婆さん牛は、声をあげて泣きだしました。
爺さん牛も、婆さん牛が、泣くので、つい悲しくなつて、大きな声でいつしよに
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