と爪切鋏

 トロちやんは、可愛らしい嬢ちやんでした。でも、夜眠る前に、トロちやんのお家では、大きな盥《たらひ》を、お台所に持ち出して、子供達は手足をきれいに洗ふことになつて居りましたのに、トロちやんだけは、嫌やだ、嫌やだと言つて、どうしても手足を洗はせません。
 これだけは、トロちやんは、悪い子でした。
 そこで仕方なく、お母さんは、汚れたトロちやんの手足を、濡らした手拭で拭つてやりました。
 トロちやんは、或る日、お兄さん、お姉さんと一緒に、お母さんに連れられて、近くのお地蔵さまの縁日にでかけました。
 ずらりと列んだ夜店は、たいへん賑やかでした。
 トロちやんは、赤いゴム風船を、買つて貰ひましたが、あまり人混みでありましたので、人に押しつぶされて、パチンと破れてしまひました。
『お母さん、絹の靴下を、買つて頂戴よう。』
 トロちやんは、ベソを掻きながら、母さんの袖にぶらさがりました。
『トロちやんは、夜おねんねの時に、お手々を洗ひたがらないし、汚ない足で、絹の靴下など履いたつて駄目ですから。』
 かう言つて、お母さんは買つてくれませんでした。お母さんは、金槌やらお鍋やら、帽子掛けやら、たくさんの金物類をならべた、夜店の前に立ち止まりました。そして
『トロちやんには、これを買つてあげませう。』
 といつて、赤く塗つた、小さな爪切鋏を手にとりあげました。
『いやだあ、そんなもの、嫌よう。』
 トロちやんは頭をふりました。
 金物店の主人は、
『お嬢さん、さあさあ、これをお持ちなさい、その鋏はよく切れますよ、子供が爪を長くのばしてをくのは、よくありませんよ。』
 と言ひました。お母さんも、
『そうでせう、この子は爪を切りたがりませんから。』
 すると、夜店の金物屋さんは、眼を真丸《まんまる》くして、
『それは大変だ、悪魔は爪から出入りするもんですよ。』
 と言ひました。トロちやんは、これを聞いて吃驚《びつくり》しました。今まで爪から悪魔が出入りするなどゝは考へなかつたからです。
 そこでトロちやんは、その爪切鋏をお母さんに買つていたゞきました。
 夜店を歩るき廻つて、みんなはお家《うち》に帰りました。顔や手足は埃だらけになつてゐましたので、何時《いつ》ものやうにお母さんは台所に大きな盥を持ち出して、子供達の手足を洗つてくださいました。
 トロちやんは、何時もの通り、いやだ、いやだ、をしました。
 ふと、トロちやんは、夜店の金物屋さんが
『悪魔は爪から出入りをしますよ。』
 といつたことを思ひ出したのでさつそく、お母さんに爪切鋏できれいに、手足の長く伸びた爪を切つていただき、そして顔や手足を洗つて寝床に入りました。
 お母さんは喜んで
『トロちやんは、なかなかお姉さんになりましたね、御褒美に明日は、トロちやんと、ミケとに赤いお座布団をこしらへてあげませう。』
 と言ひました。ミケといふのは、トロちやんの大好きで仲善しの飼猫です。
 そこでその御褒美を楽しみに、眠りました。
 真夜中頃、トロちやんの枕元で、ごそごそと、誰やら歩るき廻るやうでした。ふと眼をさましました。見ると背が三寸位の小さな人間が、行列をつくつて、トロちやんの枕元を、わい/\騒ぎ廻つてゐました。
 尖つた帽子をかぶり、痩せた顔で、みなりつぱな長い八字髯を生やしてゐました。
 小人《こども》達は、トロちやんの指のあたりを走りながら
『親指にも扉《と》がしまつてる。』
『人さし指にも扉がしまつてる。』
『中指にも扉がしまつてる。』
『くすり指にも扉がしまつてる。』
 と歌つてゐました。トロちやんは、さては爪から出入りする悪魔達だな、と思ひました。
『しめたッ、小指の扉が開いてた。』
 突然、悪魔の一人が叫びました。悪魔たちは、わつと叫んで、先を争つてトロちやんの手にかけのぼり、いちばん肥つちよの悪魔が、まつ先に、トロちやんの小指の爪に頭を突込みましたが、体が肥えてゐるので、思ふやうに入りません。
 トロちやんは、たいへん驚きました。
 お母さんがきつと小指の爪を切つて下さるのを忘れたのに違ひない。
 かう思ひましたので、ぱつと寝床からとび起きて、絵本の上にのせておいた爪切鋏を、枕元からとつて、あわてゝ小指の爪をチョキンと切りました。
 肥つちよの悪魔は、爪を切られて、転げ落ちました。
『さあ、みな扉がしまつた、逃げろ、逃げろ。』
『爪切鋏は怖ろしいぞ。』
 悪魔はかう口々に云つて、散々ばらばらに、逃げました。
 その逃げる格好は、それは滑稽で、机の足に頭を打ちつけたり、壁に衝突したり、電燈の笠にかけあがつて、辷り落ちたり、それは、それはお可笑なあわてやうでありましたので、トロちやんはお腹を抱へて大笑ひをいたしました。
 夜が明けました、トロちやんは、お母さんに、その朝
前へ 次へ
全35ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング