感心させない
銀座一丁目から新橋まで――、
銀座は地獄に筒抜けで
華かさの尽きたところが真暗だ、
哀れな市民よ、
なんべん此処を往復しようとするのか。


日本の憂愁《トスカ》

友よ、出かけよう
何処へか、街にさまよひに
勉強づらをして図書館へ
あるひは林へ
樹の下で呪ひに
病苦のためには鶏卵を買ひに
思想のためには本を買ひに
さあ出歩るかう
さあ出歩るかう
感謝すべきものが
どこかの街の片隅に
落つこちてゐるかも知れないよ
足で蹴つたチャリンといふ
金属の音で
君の神経を目覚めさせよ
よし下駄の金具を
蹴つとばしたとしても
パンを買ふかコオヒイを
のむ金をその音で想ひ出せよ
拾へよ、何でも
奪へよ、なんでも
吐けよ、血痰を
呑みこめ、苦汁を
あゝ、我等の日本は
いまエメラルドグリーンの
憂鬱な色の中にひたつてゐる
立てよ
私の膝小僧
お前の膝小僧
イザリに活を入れるために
我等の背後に
現実が廻つた
トンと腰のあたりを
そいつが蹴つてくれたのに
をどろくばかりで
立ちあがらない
さあ出歩るかう
さあ出歩るかう
日本の憂愁のために
想ひ、悩み、苦しむ
友はうぢやうぢやと
街を歩いてゐる
忙しさうにしてゐて
それは何事のためにか
悲しさうにしてゐて
それは何事のためにか
生活とは
民衆とは
いつたい何なのだ
もつとも日本人位
つまらなさうな顔を
してゐる人種がないのに
一層トスカは
日本人の額をつまらなくしてゐる
誰が我等の
性格、表情を噛み殺したか
前世紀の龍のために
すべての民衆は
ホールドアップだ
そして恐怖は
生活をまつ蒼にする
深い溜息のために
長い行列のために
民衆が覚えたものは
泣くことの技術である
たゞ労働するものゝ
胴の中の太いベルトが
笑ふ力を失つてゐないだけだ
ほつゝけ歩るけ
運命の靴を減らしに
街の中を
哀れな小市民は郊外にゆけ
思ひ出したやうに
突然桜は咲いて
春を告げるだらう
そして痩せ我慢のこの花は
ものゝ三日も美しくない


運命

あゝ、運命といふものがお可笑しな
歌うたひと一緒に
こゝまで連れだつてきた、
運命よ、お前に感謝しよう
私はお前を色々の立場から歌つてきた
色々の角度から可愛がつたり
憎んだりしてきた
甘やかされた生活に
呪はしい火の粉をふりかけられたとき
私はどんなにお前を憎んだらう
でも、今はお前のことを恨んではゐない
祈祷[*「祷」はしめすへんに壽]することをすつかり忘れた僧侶のやうに
私は最大にグウタラになつて
悪魔を味方につけて
運命よ、お前を私の墓の中にまで
引きづりこんでやらうと思ふ、
死ぬことを決して怖れはしないが
自殺をするために
体をうごかす努力を払ふなら
生きるために動かす方が努力が少いのだ
ものうい、にくらしい一日よ、
まるで頭に鉄の鉢巻をしてゐるやうに
階級のことを忘れることができなくて頭が痛む
なんてヤクザな運命を
どこまで持ち運んでゆかうとするのか
茜色のソファーのやうな雲が
空を走つてゆくのをぼんやりと眺め
私もあの雲にゆつくりと腰を下ろして
愛する国への飛行を夢みたり
とりとめもない歌うたひにかゝつては
私の運命はさまざまに
可愛がられたり憎まれたりするばかりだ。


政治は私の恋人であつた

あんなに政治を可愛がつたのに
みんなはこんなに邪剣にしてゐる
私はいまもそのことで夜更けまで考へてゐる
私はたつた一言でも
人生を肯くことができるのは
みな政治の訓練が私をさうした、
すべての友は政治に損はれ
捨てた女を憎むやうに
彼女を憎んでゐるだけで
現実の上には何んの愛も語らない
さうだ、彼女は私達を
どんなに宇《ママ》頂天に嬉しがらせ
どんなに絶望に叩きこんだらう
そのことゝ現実とはかゝはりがあらう
いまとなつては私にとつて永遠の恋人よ
あの時我々はそつとさゝやくことをしなかつた、
公然と自由を叫び地団駄した
いまはさうした恋の打開け方を
する相手もゐない悲しみのために
心の中は苦しい砂でいつぱいで
苦い汁を毎朝口から
流しこんで生きてゐる、
だが感謝すべきものを私だけは忘れない
弱虫であつた私を
こんなに鍛へてくれたのは
政治よ、私はお前だと思つてゐる
お前と激しく恋をしたのだ、
いまでは私はお前にとつても
永遠に忘れることのできない
現実のものとして私はお前に失恋して
こんなに積極的に人生を
肯定するやうになつてきたのだ。


白い夜

妹よ、まだお前は知つてゐるかい
樺太の冬の夜のことを
青白い光が街を照してゐた夜のことを、
お前は、とつぜんむつくりと起きあがつた、
そして寝床の上に坐つた、
私や父や母の顔を
暫らくは凝然とみつめてゐた
母は私に言つた
――あゝまた始まつたよ、
寝呆気てゐるのだよ、
お前、どこまで歩いてゆくか
後を尾けて行つてごらん
その時私は電燈の明るい光りの下で
少年世界を熱心に読んでゐた、
私は雑誌を畳の上に伏せた、
それから母に言ひつけられたやうに
妹よ、お前の夢遊病を尾けて行つた、
戸外は昼のやうに明るかつた、
どこにも月がでてゐなかつた
それだのに地上の明るさは
地平線のかげから
まるで水銀のやうな光りがたちのぼり
小さな街中をまんべんなく明るくしてゐた
路は凍り、妹は下駄の音を
カラコロと陽気に立てながら
私の知らない
幸福なところへでも案内するやうに
私の先に立つて歩いて行つた、
街はひつそりと静まつてゐた、
ぽかんと開かれた妹の眼は
虚洞《うつろ》のやうに
何処かの一点を凝視し
足は全く反射的に交互に運びだされ
すこしも後をふりかへるといふことをしない
郵便局のある街角まできたとき
私はかなしみがこみあげてきた
私はもうたまらなくなつて
――どうしたの
  眼を覚まさないの、
とはげしく妹の肩をどやしつけてやると
妹は、ハッと我にかへつて
――まあ、いやだわ
と私の体にひしとしがみついた
妹は自分の周囲を見まはし
一度にそこに立つてゐる
自分と羞恥とを感じたのだらう
――おゝ寒い、寒い、
二人はかう言ひながら
たがひに手をとりあつて
どんどん韋駄天走りに家にかへつた
母親は不気嫌であつた、
そして父親は笑つてゐた、
妹よ、
あの白い夜のことを覚えてゐるかい、
あの時、少女であつたお前は
今はもう三人の子の母親になつた、
きのふ私が金を借りにいつたら、
お前は瞬間しぶい顔をしたが、
金を借してしまふと
もとのなつかしい顔にかへつた
私が玄関で靴を履いてゐると
お前は傍に坐つて
いかにも改まつたやうな口調でかういつた
――兄さん
  どうして貴方は
  社会主義者になどなつたのよ、
  わたし、何にも訳がわからないから
  廃せとは言はないけれど――
  あんまり、警察なんかにいつて
  体をこはさないやうにしてね、
私はフッと笑ひながら
――どうしてなつたのかな
と空うそぶいた、
弟は戸棚から菓子を出してきて
紙に包んで手渡した、
弟よ、お前は私の歳が
いくつだか知つてゐるかい
妹よ、お前はまだ
白い夜にたがひに手をとつて
駈けだして帰つたころの
小さな兄妹のやうに思つてゐるのだらう
心配するな妹よ、
お前は社会主義の
『社』の字も知らなくても
お前はしあはせに
亭主に仕へて子供を育てゝゐたらいゝ
お前は何時までも
寒い白い夜のことを忘れてくれるな。


悲しみの袋

わたしは一人で
歌つてゐるのではない
合唱してゐるのだ
そして私は、君の眼からは
勇敢に見えるのだ、
君はたんと誤解したまへ
私は誤解されるために
詩を書いてゐる
君が現実を誤解するのは
合理的だし上手なんだから
私が歌ふと
木霊がかへつてくるよ
だから私は淋しがらない
君の悲鳴は
自分のところへ
もどつてきた例しがない
君は悲しみの入つた
立派な袋だよ
悲しみのある間はいいさ
だしきつたら
袋は強い足に踏みつけられるだらう
私の口はたたかつてゐる
帆が風にたたかつてゐるやうに
波と風との速度の早さに
窒息しさうだ
船は音高くきしる
それが私の悲鳴なのだ
高い――悲鳴、それこそ君の耳に
勇敢に聞えるところの私の歌だ、
私の眼からは戦ふことも知らないで
流れ去つてゆく
君の方がはるかに勇敢に見える。

−−−−−−−

愛情詩集


痲痺から醒めよう

私を可哀さうだと
思つてくれるのか、
そして抱擁してくれるのか、
いゝ理解と、かわいゝ愛よ、
政治をうしなつた青年の
血みどろの焦燥を
慰さめてくれる貴女たちの愛よ、
女達は男の苦しみを
愛で埋めようとしてゐる、

文学の政治性に酔つてゐた日が去つた
文学のモルヒネ患者は
そろそろ薬が切れかけて
し《ママ》つきりなしに、号泣と、倦怠と
空白と、痲痺と、あくびの連続、
わたしは知つてゐる、
適宜に対手の棍棒が
痲痺を与へる程度の打撃を
我々の後頭部に
加へられてゐるといふことを、

さあ、早く醒めなければならない、
早く政治がなくても
淋しがらない文学の子となつたらいゝ、
非戦闘部員は政治から放逐された、
そして女の愛を激しく求めてゆく、
愛はまた新しい痲痺状態を与へ始める、
思ひあがつた文学者の
政治の愛の毒よりも、
女の真実の愛ははるかに楽しい、
しかしこゝにもまた怖ろしい
よろめきがある。


汽車と踏切番

動揺と苦しみの
愛の路ははてもない。
漂泊《さまよ》ひだした貴女と私、
どうぞ、寂寥のために
物怖ぢのために――、
私に寄り添はず
胸の中にも抱かれずに
茫然としたくるしみの中で
はつきりと愛の行路を
発見して行かう。

さあ、疲れたら塩気のあるものを
また糖分をなめたり喰べたりして
獣のやうにではなく
人間のやうに
愛の路をすゝんでゆかう、
あなたの行く路は幸福に通ずる鉄の路です、
あなたが汽車になってゆくとき
わたしは踏切番になり、
あなたが今度は踏切番になつたとき
わたしが汽車になつてゆく、
ふたりが愛の乗客になつて
酔つてしまつたら、激しい生活の流れを
さへぎることをしなかつたら
きつと二人の生活は転覆するでせう。

愛はとかく通りすぎるものです、
時間も無視して酔ふものです、
一方が、一方をかならず守るものが必要です
怪我のないやうに目的地に着くやう
汽車になつたり踏切番になつたりしてゆかう。


昂[*底本は下左の部分が「工」の俗字を使用]然たる愛にしよう

心がうなだれたとき
わたしはあなたを抱へ起した
わたしの心がうなだれたとき
あなたはわたしの顔を支へた、
なんて愛とは
うなだれ勝になるものか、
支へがたいものは貴女の可憐な
肉体のなかにある女の純情だ、
跳ねかへる弾機《ばね》は
わたしの四肢の中にある男の意志だ、
冷静にならう、
愛は大きな事業だから、
笑つて語らう、
愛がうなだれて個人的な酔ひとして
芝生の上に眠つてしまつたとき
社会的な隷属の蜘蛛のあみが
するすると二人の上にをりてくる
本能とたたかふ
理智の剣で
パッと網を跳ねあげたらいゝ、
決して教養は
愛に冷酷なものでない、
それは愛を暖めるものだ、
うなだれ勝な愛を
昂然たるものにしよう、
貧乏人の理智と教養とをもつて、


かつて築かなかつた幸福

浄化された慾望は
どんなに若者たちの愛を清潔にするだらう、
人間としてほゝゑましい微笑を
投げかけあつて生活したらいゝ
新しいあなたの愛情に
古い報い方をしないやうに
新しい精神をささげよう。
女を見飽きたり、知り飽きたりしたと
臆面もなく言ふ男が多いのに
私は驚いた、
うつくしさの再吟味を
理論でやつてから
改めて女の美しさを発見しようとする
気の長い男達が少くないのだ。
そのうちに老齢がやつてくる
若いものの逢引に
シッシッと唾をかけたり
水をさしたりする可哀さうな
ひがみ屋になるだらう。
私は若さに答へよう――、
愛に速度を加へつつ
肉体的にもつれる暇を
生活のたたかひにもつて行きたい、
人々が曾つて築かなかつた
精神の濃度な
精神の物質化――の世界に
あなたと愛の生活を昂めようとする、
愛の冒険のさなかにあつて、
二つの性の冒険をなしと
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