つてくる
前のものはお前の生きた肉体で
後のものであつたら父親のものでも
母親のものでもない「自然」のものだ、
愛は過度の悲しみの中では溺れるばかりだから、
人々はいつまでも悲しむことをしないだらう、
苦い運命が国民に見守られてゐる
生命が人々の前を素早く横切ると
つゞいて黒い猫が電気より早く駈けぬける
時が生命の影を捉へようと
追ひかけてゐるかのやうに――、
歴史もなく、自由もなく
たゞ眠りと食事と
前へ歩るきだすことゝ
急に駈け出すことゝ
にぶく反響する音と、人間の叫びのみ、
破廉恥な叫喚によつて
暁の花は目ざめ
無気味な沈黙によつて
山は眠りに陥る
獣は爪の長いことゝ
牙の鋭いことを競ひ合ふために
夜となく昼となくこの辺りを彷徨する
息子をのせた黒い夢も彷徨する
人にむかつても、自然にむかつても、
また政治にむかつても等しくその黒い祈り、
灰色の歌によつて行手は満たされてゐる、
不用意に朝は明け放された
こゝに父親は坐つてゐる
そのとき息子は遠くを歩るいてゐる
母親は意味もききとれないことを呟いてゐる
やがて息子が元気に
帰つてくる日を想像してゐるのだらう、
歴史の附添人が
黒いマントを着た息子と一緒に
親達の戸口にやつてきた
そして附添人は去つてしまつた、
「あゝ、待つてゐた息子が帰つて来た――」
両親はさう叫んで抱擁した
だがマントの中には息子の体がなかつた
息子でなく、夢の枕も捨てゝきた、
しよんぼりと立つてゐるのは
黒いマントであつた、
平安と喜悦の一瞬間は風が運び去り
不安と悲哀とがいり《ママ》替りにやつてきた、
遠い運命を、あまりにまざまざと
人々の近くにそれを見た。


暗い恥知らずな運命

いつから泣くことを忘れたのか
恥知らずな運命が
いつも私の生活の巡りを
うろうろしてゐて
時折悪い犬のやうに
現はれては
私に噛みついて逃げていつてしまふ、
そのとき心から悲しみ泣いた、
だんだんと悪い運命と
こいつの廻しものを
憎むやうになつてから
私は悲しまなくなつてしまつた
いまでは素晴らしく
豪侈に憤ることを
楽しみにし始めた、
天井から飾燈《シヤンデリヤ》が音響たかく
硝子の破片を散らして
落るときのやうに
私は怒りたい、
それは美しい瞬間で
眼をうばふほどのものだ
暗い恥知らずの運命よ、
もうお前は私に
勝つことが出来ない
私は思想に
落下する重みを
加へることを知りだしたから
貧しいものの思想は
いつも長い悲しみを
短い瞬間の憤りで表現する
そしてそれを幾度も
根気よく繰り返す


馬車の出発の歌

仮りに暗黒が
永遠に地球をとらへてゐようとも
権利はいつも
目覚めてゐるだらう、
薔薇は暗の中で
まつくろに見えるだけだ、
もし陽がいつぺんに射したら
薔薇色であつたことを証明するだらう
嘆きと苦しみは我々のもので
あの人々のものではない
まして喜びや感動がどうして
あの人々のものといへるだらう、
私は暗黒を知つてゐるから
その向ふに明るみの
あることも信じてゐる
君よ、拳を打ちつけて
火を求めるやうな努力にさへも
大きな意義をかんじてくれ

幾千の声は
くらがりの中で叫んでゐる
空気はふるへ
窓の在りかを知る、
そこから糸口のやうに
光りと勝利をひきだすことができる

徒らに薔薇の傍にあつて
沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ
君の感情は立派なムコだ
花嫁を迎へるために
馬車を仕度しろ
いますぐ出発しろ
らつぱを突撃的に
鞭を苦しさうに
わだちの歌を高く鳴らせ。


速度

常識的な柱時計の
歌のくりかへしに
唾をひつかけよう
いまも鳴つてゐる
十二の時が
あいつは何の反逆もない
ゼンマイをほどいてゐる許りだ、
心の時計は三千時を打つた
心の時計は巻いてゐるときに
ほどけてゐる
ほどけてゐる時に
巻けてゐる
眼にもとまらぬほど
早く時をうつてゐる
砂がつぶやいてゐるとき
水が咆えてゐるとき
人間はなにをしてゐるのか、
愛と憎しみのために
たたかつてゐる
現実の時間を
あるがままに流してをくな、
引綱をかけて君は引くのだ
新しい時間は君のものになるだらう
貧しいものの思想はこはれない
速度を早めよう
速度を早めよう
残つてゐる仕事は
それだけだ


女のすすり泣きの歌

日本の最後の女達、
最後の――、
おそらく、すべての最後の女達――、
古い道徳と、古い習慣とに、さやうなら、
古い夢からは何も引き出されない
新しい愛の敷物の上に
お眠りなさい
新しい夢をみるやうに――、

日本の女よ、
料理の芸術家よ、
台所のミケランゼロよ、
あなたは今日も
お勝手で玉葱を切つて
眼から涙を流したり
生活のことで、
愛のことで、子供のことで、
男達のことで、泣いてゐたり
ほんとうに貴女は忙がしい、
瞳はこんこんと湧く涙の泉
いつ停めるともしれない、すすり泣き、
日本の女の底しれぬ、優しさのために
すべての男は茫然としてしまひます。
夕闇の中でいつまでも
悲しんでゐるな、
お化粧と、家庭欄はもう沢山です、
一億打のハンカチを
ぬらすのをおよしなさい、
男にむかつて
男の生活を煽り馳り立て
愛情を牽制し、
ただそのことだけで
一日を無駄にすごすことはつまらない、
私はあなたに新しいハンカチを贈りませう、
それで生活の苦しみと
愛の不安と、焦燥と
運命への犠牲とを拭つて下さい、
最後の一打のハンカチをもつて
最後のすすり泣きを奨めます、
もう新しい時代は
化粧崩れを極度に怖れることが美しくない、
生活のたたかひに加はつて下さい、
優しい生活の女拳闘家になつて下さい、
そして時には
男の鼻柱へグワンと
喰はしてみるものです、


口が裂けてしまつた

トンボは羽を押へられれば
動けないし
人間は口をふさがれれば
くるしいのだ、
わたしはさうして苦しんでゐる
サーチライトの
光りの中で
私の心も肉体も
あいつらの弾を存分に浴びた
私の口は裂けてしまつた
私の口はもう人間の口の
大きさを越えた。
天と地とを併呑する
自然の大きさに裂けてしまつた
悪魔の口をふさぐ神はゐない
歌ふ口をふさぐほど
大きな手は何処にもない
私が歌つてゐるのではない
自然が歌つてゐるのだ、
私が歌つてゐるのではない
君等が私に歌はしてゐるのだ
そして地球の上を歩るいてゐるのではない
わたしが玉乗りのやうに
地球をまはしてゐる
危険な曲芸団に
身を投じてゐる
あゝ、ぐでんぐでんに酔つぱらへ
私の言葉よ


鶏卵遊び

詩人は公然と語る喜びをもつ
その喜びをわかつために歌ふ、
青褪めた顔を
布切れにくるんで
様子ぶつた日本人が歩いてゐるのは
私にとつては滑稽に見えるだけだ、
市民は忙がしいので
スタイリストになるひまがない
文士ばかりがシャラしやらと
平凡なことを難しさうに
言ふためにどこかに向つて歩いてゆく、
長々しい小説そんなものを読む義務を
押しつけるのはファシストのやることだ、
真理は君の小説の何処にあるのだ、
手探りで書いた小説を
眼あきに読ませようとしてゐる
なんと愚劣な形式の長さよ、
私は小説を読む位なら
鶏卵を転がして遊んでゐたほうが
はるかに楽しく真理を教へられる。


風の中へ歌をおくる

君にして私のやうに
御用詩人となる
用意ありやなしや、
明日バラの花が
パッと咲いたら
バラの精となつて歌ひ得るや否や
今日私は太陽の御用詩人として、
主として黒点に就いて歌つてゐる、
太陽の黒点で
地球は冷えきつた厳寒《マロオズ》よ、
そこで私は防寒外套を着こんで立つ
声かぎり熱い声で歌をうたふ、
私は革命の御用詩人だ、
詩の一兵卒だ、
わたしは凍えた精神への
ささげ銃をしてゐない、
燃える精神の挙手をしてゐる、
司令官よ、
私の歌を閲兵しろ、
野の風の中に
私のソプラノは高く、
とほくに去つてゆく、
よし運命の追風が
私の歌をちりぢりに
うちけしてしまつたとしても
自然の風の中へ
歌をおくつた喜びがある、
私がいま机の角を指で
トンとうつたことが
君の心臓の一角をトンとうつたやうに、
私の歌は流れ流れていつかは
味方と敵との鼓膜を
うつことを私は確信する


暁の牝鶏

なんといふ素晴らしい
沈鬱な暗い夜明けだらう、
これでいゝのだ
暁はかならず
あかく美しいとはかぎらない
馬鹿な奴等は、まだ寝てゐるだらう、
りかうな奴等も寝てゐるだらう、
どつちもよく寝てゐるだらう、
ただ我々だけが、
誰にも頼まれもしないのに
夜つぴて眼をあけて
くるしんでゐるのだ、
可哀さうだとは思はないか、
歴史の発展の途上に、
眠れない男たちを。
――可哀さうだと思はない、
それは御随意だ、
おお、鶏どもよ、
お前ももう起きたのか、
羽虫を羽からほふり落して、
早く歩きまはり
コツコツと足を鳴らして
暁から活動し給へ、
塔を守る鐘楼守のやうに
牝鶏をかばふ雄鶏のやうに
愛するもののためには
献身と、奉仕が美しい
わたしの鐘楼守よ、
塔をとりかへておくれ
塔よ、塔よ、塔よ、
わたしの愛する牝鶏よ、
巣をとりかへておくれ、
セトモノの卵を、いつまでも温めてゐるのか、
セトの卵は永遠に孵らない、
めんどりよ、
君は自分の腹を
新しく痛めるのだ。


私と風との道づれの歌

強い風は山へ真正面にぶつかつた
風は数千万の草笛をふいた、
騒いだ、草むらの
草笛たち草たち
そして風は谷間を迂廻していつた
依然として花をふるはせ
草笛を鳴らしながら、
無数の谷間をとほり
いま風とたたかつてゐる、
そしてそれらのさまざまの
谿谷をとほつて
その谷の放射状に集る海のところで
風は高く激しく再び鳴りだすだらう、
やさしい一羽の小鳥のために
私は精根を傾けつくして
小さな微妙な胸毛の
ふるへにも耳傾けよう、
可憐な一片の花弁のみぶるひにも
私は眼を大きく見張らう、
一枚の葉の失望的なふるへにも
私はともに苦しむのだ、
立て、野のものぐさの牛よ、
意志的な額を突んだして
前足で、石をガリガリ掻き始めよ、
雲雀は空に歌ひあがれ、
蛇よ、とぐろをほどいて攻勢にでろ、
蝶よ、海を渡たれ
あゝ、私はお前が、海に落ちたら
葬つてあげよう、
野から谷から人間の住むところまで
やつてきた風を、私は迎へる、
私の熱した頭は
お前の風のくちづけで一層熱くなる、
凍えてしまつた頭をもつた人々を
熱した風よ、
お前の愛でとかしてくれ、
人々は高い声をだし始めるだらう
非常にはげしい声をだし始めよ、
とほくからきた風よ、
お前が谷を駈けぬけるとき
パイプオルガンのやうに壮厳に
真実の歌をうたつた
人間の意志の強さを合奏した、
私はどのやうに屈折の
ある谷であらうとも
最後の海へ出るところまで
はげしいお前の風の
道連れになるだらう。


窓と犬のために歌ふ

精神の硬化から
開放されよ、
わが友達は
良き朝夕のために
窓をひらいて
歌をうたへ
悲しいことは沢山ある、
あんなに人生の闘ひに
勇敢であつた友が
剽盗に成り下つたり、
泡盛をのんで
壁に頭をぶつつけてゐたり、
アクロバチックダンスのやうに
身をもだえて
苦しさうな小説を書いてゐたり、
でも人生とは
そんなリアリズムではない筈だ、
愛とは野火のやうに
どこまで延焼的なものではなかつたか
たよりない、暗黒な悲哀の
日常に
私にはどこにも
もたれかゝるものがないのに
しきりに人々は
もたれかゝらうとしてゐるのだ、
もう立つてゐることが
できないのか
可哀さうだよ、
休息をしたいのか、
地面に倒れるだけが
お前にとつて休息だと
いふことを知らないのか、
私は私の窓と
お前の犬とのために
かうして歌をうたつてゐるのだ、
私の窓はひらかれた
痲痺剤の容器のやうに、
お前の頭はだんだんと
うなだれてゆくのを
私は見るに堪へないから
私は歌ふのだ。


銀座

夜の街よ、
ネオンサインよ、
淫猥なばかりで
さつぱりお前は美しくない
都会の共同便所よ、
立派な建て方だ
掘割の水の上を油が辷つて流れてゆく
他人様の妻君の美しさよ、
眼にうつるもの
ひとつとして私を
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