小熊秀雄全集−10
詩集(9)流民詩集2
小熊秀雄

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漂泊詩集


月は地上を見てゐる

月よ悪い犬奴
お前は光りで咆えよ
地上の喰べ物を欲しがつてゐる
でもお前には地上の愛は喰はせない
水蜜桃の汁は
おれたちが吸ふのだ
月よ
お前は地上の一切の出来事を
なにもかにも
光りのセロファン紙で
包まうとする
貧乏も、失恋も、饑餓も
たたかひも
すべてを美化しようとする
お前はだまつて
人間のすることを見てゐたらいゝ
勝負なしの土俵が
どこかにつくられてゐるかどうか
八百長の相撲などは
どこにもない
骨を砕いたり
血をながしたりする勝ち敗けを
お前の性急な日月の
軍配であげてはならない
ながい光りの眼で
冷静にじつと地上の戦ひをみてゐたらいゝ


若い薔薇へ

僕は歌ふのだ
心の中はメタンガスでいつぱいになつた
立派な発火点でふるへてゐる。
僕は歌ふのだ、あくまで、
日本的な貧困――
そんな伝統なんか守れない
僕はヨーロッパ化された貧困の底から
よつぴて河鹿のやうに
歌ひつゞけよう、
太陽は鞭のやうに。
光つて廻つてゐる、
高いところから僕の良心を射る。
夜は真黒い南京豆袋のやうだ
人々はその中へ疲労と倦怠とを
もちこんで前後不覚だ、
君は突然寝床の上に起きあがれ
そして何事かを考へてみよ。
君の見えないところに僕が坐つてゐるだらう。
地球が始まつてからながい
だが僕が見た地球は全く新しい、
青年が老いてゆく――
そんな馬鹿なことがあるものか
若い人よ、わが友よ、薔薇よ
石臼のやうな歯をもつた人よ、
ばりばりと歯を鳴らせ。


時よ・早く去れ

雑然とした音響の中で
弱い人々の心を
鉄の輪で引き緊めるやうな
硬い、遁れることの不可能な
人々の群れたざわめきと
合唱とを今日もきいた、
朝もなく、日没もなく、
時もなく、処もなく、
そして年齢もなく、子供達もなく、財産もなく、
どよめき高鳴る声は
鋼鉄の箱からひきだされた白い蒸気の帯
無反省な者達が
一人の人間を囲んで列をつくり
愛情のあるものは
人々の眼立たぬところでそつと見送つてゐる
古い幻影は我々のところから去つてゆく
濃厚な猟と火山の新しい幻影が
新しい世紀の実在として
いま出発するものを待つてゐる
子供達や、妻や、両親が
馳けだしても到底追ひつくこともできない遠いところに
親指ほどの鉄の管が
ヒューヒューと口笛をふき十文字に走りまはる
悪魔も窒息するほどの
動揺する空気の中で生活するために
男達は続々と出かけてゆく
地面の中に智恵は埋没され
理性は空にむかつて射ち出され
すべての樹は葉を閉ぢて毒を避け
家畜は野の一隅に身を避けてゐる
都市の建物の壁はもたれる者の
重い体を支へることができない
河水は水の色を変へ
一切の自然は人間の競技場として
適当な掩護物を除くほか
見透しの利くやうにしてしまつた
そこで何が行はれ
如何に楽しい食事が始まつたか
ナイフを加へると新しい血を滲ませるほど
高給なコックに依つて巧みな調理で
豊富な肉は処理されてゐる
そこには食卓の上に争ひもなく
平和以上の静けさで骨肉の軋轢もなく
食ふものと、喰はれるものとの
計画された配分通りに行はれる
ただ次ぎ次ぎと血と肉とナイフとは
運ばれてくる
魂をとろかす快感を求め
倦まず撓まず饗宴に向ふ列
招待者の発する招待状には
鋭利な石器を打ちちがへたマークが刷られて
その招待を拒むものは鈍器をもつて
撃たれるさうした悲しい運命をもつてゐる
時よ、早く去れ
時よ、前へ
ただ私はそれのみ夢の中に描く
すぎさつた時間は、呪ふ値打はあるが
すでにそれもない
後の時ではなく、前の時が
叫喚もなく、苦悩の声と、絶望の歌とを
美しい娘のやうな手をもつて拭ひ去るだらう
腐爛した土地を新しい時は
新しく抱きかゝへるだらう
本能的な醜い饗宴に向ふ列の
通り去つた後に
新しい母親は地球を抱くだらう
雌鶏が蛇を孵すためにではなく
平和を孵すために
たゞ信ぜよ、新しい時を
後の時ではなく
前の時を――


昔の闘士、今の泥酔漢

気持よく酔つぱらへ私の友よ、
酔つてそれほど楽しくなれるなら――、
匍《は》ひまわれ――苦しさうに
君がどんなに嘔吐《へど》を吐いて
夜のネオンサインの下を歩かうとも
百米とはアスファルトを汚せまいから、
思想が君にとりついてゐた時
君は巨人のやうに歩き
巨人のやうに議論したものであつた、
いまはまるで雑巾《ざうきん》のやうに
レインコートの裾で銀座裏を掃いてあるく
友達の顔に酒をぶつかけたらいゝ――、
げらげら笑ひ給へ、鼻水を吸ひあげろ、
鮨《すし》を頬ばつてカラミで泣け
あゝ、そしてガードの下を酔つぱらつて
曾つてのコンミニストが匍つてゆく、
私は君を悲しまない、
スペインの子供達が
看護卒遊びをやつてゐるとき
どんなに君が酒臭い呼吸を
私の顔に吹つかけようとも――、
君は自分の思想を、夜の暗黒に手渡した
昨夜も、今晩も、都会の舗道にぶつ倒れ
滅びてゆく地球を
いたはるやうに体で温めてゐる、
しかし君の体が全く冷えきつたとしても
地球が滅びるやうなことはないだらう。


星の光りのやうに

信じがたい程
暗い、暗い、空のもとに
我等は生活してゐる、
暗黒と名づけようか、
この夜の連続的なふかさを――、

だがこの空の星の
光りやうを君は見落してはいけない、
空が暗ければ
星は光るんだ、
われらの意志のやうな
微妙な強さで
この空のものと
地上のわれらと交驩しよう、
星と人との
よろこびあひに
立会ふものは誰もゐない、
だが星や人間は
そのことを知つてゐる、
人間の皮膚の色に
艶がでたり、色がさしたり
若さから老に移つてゆくやうに、
星もまた若さから
老いてゆくであらうことを、
ただ星はそのために
一瞬間でも
光るのを停めただらうか、
ああ、我々の若さから
闘ひの移りゆく一瞬間にも
われらはたたかひの
意志の光を停めていゝだらうか、
ゆるしがたいことは――
あらゆる地上のものを
汚辱することだ
行為の光芒を
さへぎるものはないだらう
若い自由な
意志の伝達を
地上にをいて
星の光りのやうにすばやく行はう。


腐つた葡萄

腸の腐つた男の
垂れながしのやうに長い小説は
こんこんと眠る病人の読者のために書かれ
雑誌に掲載される
そしてこの読者に与へる読物は
口からでなく眼から
この汚れた文章は注ぎこまれる
石炭酸をぶちかけても
到底死滅しさうもない菌だらけの
空想の充満された頭で
でつちあげた嘘だらけの物語
民衆へ過度の痙攣を与へるために
存在するところの、お前芸術家よ
お前の嘔吐をもつて糊づけされた著作物
不遜にも表紙には金の星をちりばめ刷られたりして
この罰当りの真理とはおよそ
縁のないところの不摂生な
気取つた淫蕩男の体験を
富豪との情事に置きかへて
ながながと書かれた物語
貧困の者たちの喧騒の中へ
いかにもこれらの貧しきものの味方づらして
のこのことでかけてゆく偽良心家
他人を圧殺することで
そのものの屍体の上に
自分の棺を乗りつけて勝利を叫ぶ
赤ん坊の快楽を表現した鬚だらけの大人
文壇の駈け廻り者
政治家が好きでソファーを賞める心情を
そつとかくしてテーブルスピーチをやる輩
他人の死ぬのを見にでかける
図々しい果の知らない無神経野郎
委嘱されて材料をとりに
嬉しがつて農村まで飛んでゆく
もつとも政策にかなつた使ひ走り文士
いまこそ諷刺と称する
雑巾でせつせとこ奴等のツラを
拭つてやる番がやつてきたのだ
古い腐つた脊髄をもつて
辛うじて作品の五体を突立てゝゐる
執念ぶかい命根性の汚ない奴に
いちばん太い針で注射をしてやれ
彼等を蘇生させるためでなく
不真実をすみやかに溶かすために刺すのだ
若い吾が友、青年たちよ
鉄の羊として育てられたものよ
君等の世界には青草がある
陽と月と二つの目は君等のものだ
しづかに回転する時の瞳孔
何ものをも見透す強い視線は君のものだ
悪霊よりも魔女よりも
もつと神通力を発揮して
腐つた葡萄が汚ならしい鈴のやうになつてゐる
古い文学の樹を枯らさう


心の城崩れるとき

けふ城壁は祭壇となつて
一夜にして鮮かな赤い絨毯は壁にかけられ
白い新しい造花は供へられた
重い鎖が強く空中に引かれたとき
こゝの容子が一度に変つたのだ、
叫びは去つた、平安な夜の歌が城壁の上からきこえてくる、
みおろせば涯《ママ》かに病める庭
点々として煙のたちあがる穴、
私はこゝから哀悼する
火星が救ひに来る日まで
かくしていたるところの城壁は崩れ
自由の路は荒廃した、
たゞ読経者の職業的な
声が遠くから聞えてきた、
こゝで悔なく人々は戦つた
戦ふことに依つてすべてが終るかのやうに
狂気と酩酊とで
太陽が乱視の光線を放ち
地を掃きまはつた
黒い影が壁に殺到し
一方の影が一方の影を壁の後につき落した
瞬間に行はれた遊びは
沈痛な歌をもつて始まり
鈍重な叫びをもつて終りをつげた、
さらに歌は始まり、
叫びはつづく、
次の壁にむかつて鉄は祈りの声をあげ
火と呪ひの眼をしばたたく
心の城崩れるとき
一時に天は明るくなり
地の明るさの中に引きこまれる。


夜の床の歌

われらの希望は微塵に打砕かれた
太陽、もうお前も信じられない、
月、お前は雲の間を軽忽に走り去る。
すべてのものは狂犬の唾液に
ひたされたパンを喰ふ、
胸騒ぎは静まらない、
強い酒のためにも酔はない、
あゝ、彼等は立派な歴史をつくるために
白い紙の上に朱をもつて乱暴に書きなぐる、
数千年後の物語りの中の
一人物として私は棺に押し込められる
私はしかしそこで眼をつぶることを拒む、
生きてゐても安眠ができない、
死んでも溶けることを欲しない、
人々は古い棺ではなく
新しい棺を選んで
はじめて安眠することができるだらう。
太陽と月は、煙にとりかこまれ
火が地平線で
赤い木の実のやうに跳ねた。
あゝ、夢は去らない、
びつしよりと汗ばみながら
いらいらとした眼で
前方を凝視する。


日本の夢と枕の詩

誰もお前を愛さないとは言はない
「日本よ」寝起きの悪い子供であるお前を
誰が突然ゆり起したのか、
父でもなく、母でもなく
お前自身の中の夢がお前の枕を蹴つた
そのためにお前は一日中不機嫌であつた
語れ、幼児よ、心の中の秘密を――、
卑屈でもなく、臆病でもなく、深い掘割や
流れを危なげもなく、進む、自信に満ちた、
小さな旅立ちの行手に、お前は何を発見したか、
それを語れ、何を失ひ、何を得たか、
何を得て、何を失つたか、
はじける声と、すゝり泣きと、重いうめきを
出発するお前の、背後に聞きはしなかつたか、
生長するものが犯す冒険や
未知の世界を探る冒険を
お前の両親はおそれはしないだらう、
たゞ旅立つことが突然で
お前の追ふものの正体が不明であることだ
その上、お前は少しも後を振返ることをしない
停まらぬローラースケートか、
火の靴を履かされたやうに駈け去つた、
がら/\と音をたてゝ道路の上を――、
シュッ、シュッと音をたてゝ川の中を――
父親は悔いてゐる
寝てゐる床にお前の心の中の黒い夢が
大きくなつてゐたことに気がつかなかつたことを
母親も悔いてゐる
どうしてもつとあの子の枕を
しつかりと押へておかなかつたかを――、
誰もお前を愛さないとは言はない
お前はとつぜん抱擁の時を
ふりきつて遠く旅立つたゞけだ。

雲は星を掩ひかくして
夜の街を真暗にしてしまつた
悪い夢に加担して月まで忠実に欠けた
たくさんの褐[#右下の部分は「蝎」の右下部と同形]色の梟が降りて街角に立つた
彼等は精一杯羽をひろげた、
息子よ、お前が旅立つた後の街の様子は
曾つての日の美しさを全く失つた、
風は季節、季節にやつてこなかつた、
そして警笛が花を散らした
あるゆる自然なことや
不自然なことが灰のやうに降つた
人間が荒廃するかのやうであつた
間もなく不安は去つていつた
だが息子は戻つて来ない、
すぐ明日にも元気で帰つてくる、
或はお前のかはりに「永遠」が帰
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