てしまつて
いまは全く身を通り抜ける何ものもない

曾つてはこの一つの釦の穴ほどの
小さな人生の覗き眼鏡には
さまざまな現象が映つたものだ
ある日は、はげしい夕焼が
鮭の腸わたの血の色よりも赤く
海の上を過ぎたものだ
いまは全く暗い、
いまはぼんやりと街の街燈をながめ
ぶつぶつと呟やきながら
加へたり引いたり掛けたり
おのれの運命の区分に時を費やす
なぐさみと真実とを行き来する
泥酔の瞬間は楽しい、
手にしたステッキは
舗道をたたきて割れたり
ステッキを地に振れば危ぶなし
天に投げれば更にあぶなし
空間に捧げもてば疲れる、
まゝよとステッキを投げとばして
冷めたいアスファルトの上に坐りこむ
そのときステッキは、
すつくと立ちあがつて
泥酔の主人を見捨てゝ
深夜の舗道を
コツコツと足を鳴らして去つてゆく。


墓場

大馬鹿者墓場の中に
まよひ込む
一つの墓には
イエスの十字架きざまれ
一つの墓は崩れかゝつてゐる
もう一つの墓大理石鋭どく磨かれて
大馬鹿者の顔がうつる
そこには影のやうに
女の顔もうつつてゐる
墓はあるものは欠け、あるものは崩れ
しだいに忘却の土の中に沈んでゆく
新しい墓
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