は
湖に降りたつた白鳥が
湖面の水に波紋をつくつて
瀕死の姿態をつくることを
この上もなく美しいものとした、
あゝ我々の瀕死の白鳥は
いま湖に降りようとする、
新しいロシアにとつてそれは
何の魅力もなく美しいものでもない、
こゝには我々の痙攣があり、
水に消えさる苦悶があり、
そして波紋は瞬間にして去つてゆく。
死界から
君達は生きた人間の世界を
私は死んだ人間の世界を
生と死とこの二つの世界を
君達と私とで占有しよう、
そして二つの世界に属しない
ものたちを挟み撃しよう、
二つの世界に属しないものが
果してあるか、
ある――、
生きてゐることにも
死んだことにもならないものが、
死を怖れなかつた時代よ、
肉体から
最後の一滴の血を
したたり落す瞬間まで
死の怖ろしさを
知らなかつた男のために、
私は死の門をひらいてやらない、
そいつの霊よ、
勝手なところへ迷つて行け、
我々の死界には
何の機関もない、
死んだもののためには
生の世界の君達記録係りが
ペンをとりあげよ、
更に生きてゐる人間の
行動の正しい評価のために
君らの世界に
新しい墓標を数かぎりなく
立てたらいゝ、
生きた世界には
死の自由人が多い、
彼が死を怖れないことが
完全だといふ意味で
彼の自由であり
また無力であつた、
私はこの死の極左主義者のために
私の死の門を開いてやらない、
すべての自由とは
意識された必然ではないのか、
死も勿論生の感動に
答へるほどの高さになければ
君の人間としての
肉体は滅びて
一匹の蛆虫を生かすにすぎない、
君の考へは何処に生き
どこに記録されたか、
盲者よ、
君は幾人の
労働者をふるひたたせ、
コンニャク版で
幾枚の宣言を刷つたか、
幾度、幾本の橋を渡り
幾度女にふれたか、
公開し給へ、
君は死んでゐる
君は語ることができまい
君が意志を伝達したものが
それを後世に伝へるだけだ、
だが誰も証明し
伝達しない、
君の霊は迷ふだけだ、
狭い自己の必然性に
甘えて脱落し
死んでいつたものよ、
英雄らしく捕へられて
小人らしく獄舎に悩んだものよ、
なぜ逆でないのか、
小人らしく捕へられて
英雄的に死んでいつた
無数の謙遜な友を私は知つてゐる、
死の軽忽は責められない、
彼は追はれた、
右のポケットに手を突込んだ、
そこに短銃はなかつた
あわてゝ彼は左のポケットを探した
そこにはそれがあつた、
彼は己れのコメカミを射撃する、
その戸まどひは
愛すべきものだ、
人間的なこの男の真実は
決して右にも左にも
どちらのポケットにも無かつた、
真実はその中間にあつたのだ、
それは頭脳の位置にあつただらう、
私は死界から
濃藍色の生の世界を見透す
じつと諸君の傍の
赤いランプをみまもつてゐる
光りと生命の明滅を、
フッと光りは消された
暗黒の中に諸君と
私は何を待つてゐるのか、
知れたことだ、
灯を点じられることを待つてゐる、
時間の変化の中に
点じられない洋燈《ランプ》を
おくことは良くない、
生と死との瞬きの火、
近づき難いものに
近づくことのできる
最初の男達は
マッチのやうに燃え尽きるだらう、
そして完全に灯はともるだらう、
私は彼のために死の門を開かう、
死界へは生の感動を
土産にもつてきてくれ、
死んで世迷ひ言をいふ手輩は
死の門の鉄扉の前にいたづらに騒ぐ
脱落に生きて
物言ふものは
焦燥と無感動とに
もの言ふたびに己れの舌を噛む、
沈黙をしてゐる義務を
与へられてゐることを彼は知らないのだ、
美しい死者を迎へるために
門を化粧して私は待つ
素朴で激情的な
行為は讃へられよう、
死は前脚で
生は後脚
後脚はいつも
前脚にオベッカを使ふ、
このチンバの馬の
醜態のために
いたづらに土は荒らされる。
駿馬の闊達とした足なみの
美しい調和よ、
生死の感動の高まりのために
私は死の門を開放するだらう。
百姓雑兵
草原に鯨波《とき》の声はきこえてきた、
腸《はらわた》にひゞきわたる陣太鼓
他人の首を獲る
権利を与へられたる大軍こゝにあり、
緋おどしの鎧は華美と位階と
敵に対する威嚇とを兼ね備へ
トツトツと馬を陣頭にすゝめてゆく、
――もの共、続けやあ――、
と武士は大音声に呼ばはつたり、
『もの共続けやあ』といふ命令を
現代語に訳してみると
『物質共続けやあ』といふことになる、
すると物質共は、
わあ、わあ叫喚し
味方の大将を死なすなと
雑兵達争つて
敵方の陣に突込む、
――我こそは一番槍なり
――続いて太倉源五郎、二番槍なり、
――味方の大将こそは
我が武勇の程を賞覧あれ、
『天晴れ、出かしたり、勇猛なり、』
みどりの草原に濛塵たち
オレンヂ色の夕映を背景にして
敵味方、真紅の血をながす、
自然も、旗も、人々
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