十六年間にわたり、後で三巻の本[#「三巻の本」に傍点]にまとめた。人間の事業の最高記念物、新発見の智識の庫として、非常に貴ばれたもので、これを精読して[#「これを精読して」に傍点]、自分の発見の[#「自分の発見の」に傍点]端緒《いとぐち》を得た人が[#「を得た人が」に傍点]、どの位あるかわからない[#「どの位あるかわからない」に傍点]。マックスウェルはこれから光の電磁気説を想いついて、理論物理学の大家となり、またエヂソンも面白がって読み耽けり、大発明家となった。
この本は普通の本とは非常に趣きが異っていて[#「非常に趣きが異っていて」に傍点]、ファラデーが研究するに当って、いろいろに考えをめぐらした順序から[#「順序から」に傍点]、うまく行かなくて失敗におわった実験の事までも[#「失敗におわった実験の事までも」に傍点]、事細かにすっかりと書いてある。これを読めばいかにして研究すべきかということの強い指針を読者に与えるし、そのうまく行かなかった実験を繰りかえして、発見をした人も少くない。この両方面から見て、非常に貴い本である[#「非常に貴い本である」に傍点]。
電磁気以外の研究は「化学および物理学の実験研究」という本に、集めてある。また「化学の手細工」という本を出版したが、これは時勢遅れになったというので、後には絶版にしてしまった。それから、クリスマス講演の中で、「ロウソクの化学史」と、「天然の種々の力とその相互の関係」とが出版されている。いずれも六回の講演で、クルークスの手により出版された。
五〇 名誉
ファラデーの名声が高くなるにつれて、諸方の学会や大学から名誉の称号[#「名誉の称号」に傍点]を贈って来た。一八二三年にパリのアカデミーの会員になったのを初めとし、同六四年にイタリアネープルのアカデミーの会員になったのを終りとし、その中、一八二四年にローヤル・ソサイテーの会員になったのだけは、自分で望んだのだが、この他のはみな先方からくれたので、合計九十有六[#「合計九十有六」に傍点]。その中にはオックスフォード大学の D.C.L. とキャンブリッジ大学の L.L.D. というようなのもあり、ロンドン大学の評議員というのもあり、キャバリヤー・プルシアン・オーダー・オブ・メリットというようなのや、パリのアカデミーの名誉外国会員というようなものもある。ローヤル・ソサイテーの最高の賞牌のコプレー賞も二度までもらった。
これらの名誉をファラデーは非常に重んじたもので、特別に箱を[#「特別に箱を」に傍点]つくりて、その内に入れて索引まで[#「索引まで」に傍点]も附けて置いた。
五一 宗教
ファラデーの信じておったサンデマン宗の事については前にも述べたが、一八四〇年から四四年までの間、ファラデーはこの教会の長老であった。それが四四年に長老たることも会員たることもやめられた[#「やめられた」に傍点]が、その委細は、ある日曜日にファラデーが欠席をした。どうしたかと聞かれたら、ヴィクトリア女王に正餐に招かれたと答えて、正当の理由であるごとくに弁解した。これが不都合だというので、やめられたのである。しかしこの後も引きつづき熱心に礼拝には来ていた。そのため、後にはまた[#「また」に傍点]会員になり、一八六〇年からふたたび[#「ふたたび」に傍点]長老となった。説教したことも度々ある。ファラデーの説教だというので、わざわざ聴きに行った人もある。
しかしファラデー位、講演の上手にやれる人はあるまいが[#「あるまいが」に傍点]、ファラデーよりもっと効目《ききめ》があるように説教の出来る者は無数[#「無数」に傍点]にあるという評で、講演の時の熱心な活《い》きいきとした態度は全々無く、ただ信心深い真面目《まじめ》という一点張りで、説くことも新旧約聖書のあちらこちらから引きぬいたもの[#「引きぬいたもの」に傍点]で、よく聖書をあんなに覚えていたものだと、感心した人もある[#「感心した人もある」に傍点]。
ファラデーは神がこの世界を支配することに関して、系統的に考えたことは無いらしい。ニュートンやカントはそれを考えたのであるが。ファラデーのやり方は、科学と宗教との間に判然と境界を立てて別物にして[#「別物にして」に傍点]しまい、科学において用うる批評や論難は、宗教に向って一切用いないという流儀であったらしい。ファラデーの信じた宗教では、聖書のみが神の教というので、それに何にも附加せず、またそれより何にも減じないというのであった。ファラデーは新旧約聖書の出版の時代とか、訳者とかについて、一つも誤りなしと信じ[#「一つも誤りなしと信じ」に傍点][#「、一つも誤りなしと信じ[#「一つも誤りなしと信じ」に傍点]」は底本では「、一つも誤りなしと信じ[#「、一つも誤りなしと信じ」に傍点]」]、他の古い記録と比較しようとも考えなかった[#「他の古い記録と比較しようとも考えなかった」に傍点][#「、他の古い記録と比較しようとも考えなかった[#「他の古い記録と比較しようとも考えなかった」に傍点]」は底本では「、他の古い記録と比較しようとも考えなか[#「、他の古い記録と比較しようとも考えなか」に傍点]った」]。
ファラデーの態度をチンダルが鋭く批評し[#「鋭く批評し」に傍点]たのに、「ファラデーは礼拝堂の戸は開けっぱなしで(open)寛大にして置くが、実験室の戸は出入がやかましく厳重である(closed)」と言った。これは酷評ではあるが、その通りである。
ファラデーは非常に慈《なさ》け深い人で、よく施しをした。どういう風に、またどの位したのか、さすがに筆まめな彼れもそればかりは書いて置かな[#「書いて置かな」に傍点]かった。多分貧しい老人とか、病人とかに恵んだものらしく、その金額も年に数百ポンド(数千円)にのぼったことと思われる。なぜかというと、ファラデーは年に一千ポンド近くも収入があったが、家庭で費したのはこの半分くらいとしか思われぬし、別に貯金もしなかったからだ。ファラデーの頃には、グリニッチの天文台長の収入が年に一千ポンド位。また近頃では、欧洲戦争前の大学教授の収入が、やはりその位であった。
五二 狐狗狸《こくり》の研究
一八五三年には、ファラデーは妙な事に係《かか》り合って、狐狗狸《こくり》の研究をし、七月二日の雑誌アセニウムにその結果を公にした。
狐狗狸では、数人が手を机の上に載せていると、机が自ら動き出すのだ(いわゆる Table−turning)。しかしファラデーは机と手との間にある廻転する器械を入れて、誰れなりと手に力を加えて机を動さんとすると、すぐこの器械に感ずるようにした。これを入れてから、机は動かなくなった[#「動かなくなった」に傍点]。
ファラデーのこの器械は今日も残っている。この顛末がタイムスの紙上にも出たが、大分反対論があり、女詩人のブラウニング等も反対者の一人であった。その頃ホームという有名な男の巫子《みこ》があったが、ファラデーは面会を断わった。理由は、時間つぶしだというのであった。
ファラデーの風《ふう》は、推理でやるよりは直覚する[#「直覚する」に傍点]という方であって、むしろ科学的よりは芸術的であった[#「むしろ科学的よりは芸術的であった」に傍点]。しかしテニズンとか、ブラウニング等とは交際もしなかったので、この点では同じ科学者でも、ダーウィンやハックスレー等とは、大いに趣きを異にしていた。
五三 晩年
一八五八年にはアルバート親王の提議で、ヴィクトリア女王はロンドン郊外ハンプトンコートの離宮の近くで緑の野原の見える小さな一邸をファラデーに賜わった。ファラデーは初めには御受けを躊躇した。これは家の修理等に金がかかりはせぬかと気づいたためであった。これを聴かれて、女王は家の内外を全部修理された。そこでファラデーは移転した。しかし、王立協会の室はまだそのまま占領しておって、時々やって来た。
クリスマスの講演も一八六〇年のが最終となり[#「最終となり」に傍点]、ファラデーの健康は段々と衰えて、翌年十月には王立協会の教授もやめて[#「教授もやめて」に傍点]、単に管理人[#「管理人」に傍点]となった。時に七十歳である。このとき、ファラデーが王立協会の幹事に送った手紙には、
「一八一三年に協会に入ってから今や四十九年になる。その間、サー・デビーと大陸に旅行したちょっとの間が不在であっただけで、引きつづき永々《ながなが》御世話になりました。その間、貴下の御親切により、また協会の御蔭によって、幸福に暮せましたので、私はまず第一に神様に謝し、次には貴下並びに貴下の前任者に厚く御礼を申し上げねばならぬ。自分の生涯は幸福であり、また自分の希望通りであった。それゆえ、協会へも相当に御礼をなし、科学にも相当の効果を収めようと心がけておりました。が、初めの中は準備時代であり、思うままにならぬ中に、もはや老衰の境に入りました。」
というようなことが書いてある。
翌一八六二年三月十二日が実にこの大研究家の最終の研究日であった[#「三月十二日が実にこの大研究家の最終の研究日であった」に傍点]。またその年の六月二十日が金曜講演の最後で[#「金曜講演の最後で」に傍点]あった。その時の演題はジーメンスのガス炉というのであったが、さすがのファラデーも力の弱ったことが、ありありと見えて、いかにも悲しげに満ちておった。ファラデー自身も、これが最後の講演だと[#「最後の講演だと」に傍点]、心密かに期していたそうである。この後も、人のする講演を聴きに行ったことはある。翌一八六三年にはロンドン大学の評議員をやめ[#「評議員をやめ」に傍点]同六四年には教会の長老をやめ[#「長老をやめ」に傍点]、六五年には王立協会の管理人もやめて[#「管理人もやめて」に傍点]、長らく棲んでいた部屋も返してしまい[#「部屋も返してしまい」に傍点]、実験室も片づけた[#「実験室も片づけた」に傍点]。この時七十四歳。後任にはチンダルがなった。もっともチンダルは既に一八五四年から物理学の教授にはなっておった。
それでも、まだ灯台等の調査は止めずにやっておったが、トリニテー・ハウスは商務省とも相談の上、この調査はやめても、年二百ポンドの俸給はそのままという希望で、サー・フレデリック・アローが使いにやって来た。アローは口を酸《すっぱ》くして、いろいろ説いたが、どうしてもファラデーに俸給を受け取らせることが出来なかった。ファラデーは片手にサー・アローの手を、片手にチンダルの手を取って、全部を[#「全部を」に傍点]チンダルに譲ることにした。
五四 終焉
ファラデーの心身は次第に衰弱して来た。若い時分から悪かった記憶は著しく悪るくなり、他の感覚もまた鈍って[#「感覚もまた鈍って」に傍点]来、一八六五年から六六年と段々にひどくなるばかりで、細君と姪のジェン・バーナードとが親切に介抱しておった。後には、自分で自由に動けないようになり、それに知覚も全く魯鈍になって耄碌し、何事をも言わず、何事にも注意しないで、ただ椅子によりかかっていた。西向きの窓の所で、ぼんやりと沈み行く夕日を眺めている[#「ぼんやりと沈み行く夕日を眺めている」に傍点]ことがよくあった。ある日、細君が空に美しい虹[#「美しい虹」に傍点]が見えると言ったら、その時ばかりは、残りの雨の降りかかるのもかまわず、窓から顔をさし出して、嬉しそうに虹を眺めながら、「神様は天に善行の証《あか》しを示した」といった。
終に一八六七年八月二十五日に、安楽椅子によりかかったまま、何の苦しみもなく眠るがごとくこの世を去った。遺志により、葬式は極めて簡素に行われ、また彼の属していた教会の習慣により、ごく静粛に、親族だけが集って、ハイゲートの墓地に葬った。丁度、夏の暑い盛りであったので、友人達もロンドン近くにいる者は少なく、ただグラハム教授外一、二人会葬したばかりであった[#「
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