供に講話をする事もある。前の数列は小供で一杯。その後にはファラデーの友人や学者が来る。その中にサー・ジェームス・サウスも来る。聾であるが[#「聾であるが」に傍点]、小供の嬉しがる顔が見たいからといって来る。ファラデーは鉄瓶とか、ロウソクとかいうような小供の知っている物の話をし、前に考えもつかなかったような面白いことを述べて、それから終りには何か有益《ため》になる話をする。
 また日曜日[#「日曜日」に傍点]には、家族と一緒にレッド・クロッス町のパウル・アレイにある小さい教会に行く。この教会は地下鉄道の停車場が出来たので、今日は無い。午前の説教や何かが済んでから、信者が皆一堂に集って食事をし、午後の礼拝をすまして帰るのは五時半[#「五時半」に傍点]で、それからは机で何か書きものでもして、早く[#「早く」に傍点]床につく。ファラデー自身が説教をしたこともある。

     四三 病気

 一八三九年の終り頃からファラデーの健康は衰えて来て、初めには物忘れがひどくなり、その後は時々|眩暈《めまい》を感ずるようになった。翌年には、医師の勧めで研究をやめた。けれども講演だけは時々していた。これもその翌年からはやめて、全く静養する[#「静養する」に傍点]ことにした。暇に、紙細工をしたり、曲馬、軽業、芝居、または動物園などに行った。細君はもはや王立協会には住めなくなって、動物園の近い所にでも移転しなければならないかと心配した程であった。
 それからスイスへも旅行[#「スイスへも旅行」に傍点]した。細君とその兄のジョージ・バーナードか、さなくば姪のライド嬢が一緒に行った。しかし細君の熱心な介抱により段々と良くなり、一八四四年には旧《もと》の体になって、また研究[#「また研究」に傍点]にとりかかった。
 スイスへ旅行した折りには、ワルメールという所で、田舎家を借りていたこともある。窓からはチェリーの木の上に鳥の巣が見える。母鳥が雛にはぐくむのも見える。小羊が母を探して、戸の外までやって来る。ファラデーは日の昇る[#「日の昇る」に傍点]のを見るのが好きなので、姪に起してくれといい、姪はペイウェルベイの上が明るうなると、下の室へ降りて行き、戸を叩いて起した。ファラデーは入り日を[#「入り日を」に傍点]見るのも好きで、野の草花の咲き乱れた山の上に長い夏の太陽の光が薄れ行き、夕ぐれになるとアッパーデールからの寺の鐘が聞えて来る。あたりが全く暗くなる頃までも眺めていた。
 バイロンのチャイルド・ハロルドにあるレーマン湖のくだりや、またカレッヂの「モン・ブランの讃美」を読むのも好んだ。読んで感ずると、声にも現われ眼にも涙を出すという風であった。

     四四 保養

 ちょっと、休養[#「休養」に傍点]に出かける場合にはブライトンに行く。クリスマス前にも度々行ったし、四月の復活祭にも行った。海の風を吸いに行くのである。
 しかしちょっと、気を紛らそうという時には、旅行しないで、アイバンホーや巌窟王を読んだり、有名なキーツの芝居を見に行ったり、ヂェンニイ・リンドの歌うのを聞きに行った。
 時々は用事と保養とを兼ねて旅行もした。英国科学奨励会《ブリチシュ、アソシェーション》にもよく出席した。一八三七年リバープールにこのアソシェーションが開催された時には、化学部の部長をした。その後、会長になれといわれたこともあるが、辞退した。一八五一年イプスウイッチの会でチンダルに逢った。
 晩年には灯台の調査を頼まれたので、田舎へ旅行したこともある。

     四五 しなかった事

 人の一生を知るには、その人のなした仕事を知るだけでは十分でない。反対に、その人のことさらしなかった事もまた知るの必要がある[#「ことさらしなかった事もまた知るの必要がある」に傍点]。人の働く力には限りがあるから、自分に適しない事には力を費さないのが賢いし[#「賢いし」に傍点]、さらにまた一歩進んで、自分になし得る仕事の中でも、特によく出来る[#「特によく出来る」に傍点]ことにのみ全力を集注するのが、さらに賢い[#「さらに賢い」に傍点]というべきであろう。
 ファラデーは政治や社会的の事柄には、全く手を出さなかった。若い時に欧洲大陸を旅行した折りの手帳にも、一八一五年三月七日の条に、「ボナパルトが、再び自由を得た(すなわちナポレオン一世がエルバ島を脱出したことを指す)由なるも、自分は政治家でないから別に心配もしない。しかし、多分欧洲の時局に大影響があるだろう」と書いた。後には、やや保守党に傾いた意見を懐《いだ》いておったらしい。
 ファラデーのような人で、不思議に思われるのは、博愛事業にも関係しなかったことである。もちろん個人としての慈恵はした。
 また後半生には、科学上の学会にも出席しない[#「科学上の学会にも出席しない」に傍点]。委員にもならない。これは一つは議論に加わって、感情に走るのを好まなかったためでもあろうが、主として自分の発見に全力を集めるためであった。
 食事に招かれても行かないし[#「食事に招かれても行かないし」に傍点]、たとい晩餐に出席しても、直きに帰って来る[#「直きに帰って来る」に傍点]という風であった。旅行先でも、箇人の御馳走は断わった。訪問を受ける時間にも制限[#「制限」に傍点]をもうけた。これでいかに自分の力を発見に集中したかが窺《うかが》われる。
 田園生活や、文学美術の事にも時間を費さない。鳥や獣や花を眺めるのは好きだったが、さてこれを自分で飼ったり作ったりして見ようとはしなかった。音楽も好きではあったが、研究している間は少しも音を立てさせなかった。

     四六 訪問と招待

 時々、訪問者[#「訪問者」に傍点]があるので困った。ある朝、若い人が来て、新研究をお話し致したいと、さも大発見をしたようにいうので、ファラデーは面会して、話をきいた。やがて書棚にあるリーの叢書《そうしょ》の一冊をとって、
「君の発見はこの本に出てはいないか。調べたのかね。」
「いや、まだです。」
 ファラデーは頁《ページ》をくって、
「これは四十年も前に判っている事ではないか。このようなことで、私の時間をつぶさないようにしてくれ給え。」
 しかし、誰か新しい発見[#「新しい発見」に傍点]でもすると、ファラデーは人を招いて、これを見せたものだ。発見の喜びを他人に分つというつもりである。キルヒホッフがスペクトル分析法を発見したときにも、ファラデーはいろいろな人に実験して見せた。ブルデット・クート男爵夫人に出した手紙には、
[#天から4字下げ]五月十七日、金曜日、
 拝啓明日四時にマックス・ミュラー氏の講演すみし後、サー・ヘンリー・ホーランドに近頃ミューニッヒより到着せる器械をもって、ブンゼンおよびキルヒホッフ両氏の発見したるスペクトルの分析を御目にかくるはずに相なりおり候。バルロー君も来会せらるべく、氏よりして貴男爵夫人もその時刻を知りたき御思召の由承わり申候。もし学究の仕事と生活とを御了知遊ばされたき御思召に有之、かつ実験は小生室にて御覧に入るるため、狭き階段を上り給うの労を御厭い無之候わば、是非御来臨願い度と存候。誠に実験は理解力のある以外の者には興味無之ものに御座候。以上。
[#地から2字上げ]エム、ファラデー

     四七 質問

 時々は手紙で質問し、返事を乞うた人もある。この中で面白いのは、ある囚人[#「囚人」に傍点]のよこした手紙である。
「貴下のなされし科学上の大発見を学びおれば、余は禁囚の身の悲しみをも忘れ、また光陰の過ぐるも知らず候」という書き出しで「水の下、地の下で、火薬に点火し得るごとき火花を生ずるに、最も簡単なる電池の組み合わせはいかにすべきや。従来用いしものはウォーラストン氏の原理によりて作れる三十ないし四十個の電池なるも、これにては大に過ぎ、郊外にて用うるには不便に候。これと同様の働きを二個の螺旋《らせん》にてはなし得まじく候や。もしなし得るものとせば、その大さは幾何に候や」というので、つまり科学を戦争に応用せん[#「科学を戦争に応用せん」に傍点]とするのである。
 囚人でありながら、こんな事を考えていたのはそもそも誰であったろうか。後にナポレオン三世[#「後にナポレオン三世」に傍点]になったルイ・ナポレオンその人で、その頃はハムの城砦《じょうさい》に囚われておったのだ。
 ナポレオンはその後にも「鉛のように軟《やわらか》くて、しかも鎔解しにくい合金は出来まいか。」という質問をよこしたこともある。「実験に入要な費用は別に払うから」ということまで、附記して来た。
 ファラデーの返事は大抵簡単明亮であった。

     四八 ローヤル・ソサイテーの会長

 英国で科学者のもっとも名誉とする位置はローヤル・ソサイテーの会長である。ファラデーは勧められたが、辞退してならなかった[#「辞退してならなかった」に傍点]。
 一八五七年、ロッテスレー男爵が会長をやめるとき、委員会ではファラデーを会長に推選することになり、ロッテスレー男、グローブ、ガシオットが委員の代表者となって、ファラデーに会長就任を勧めにやって来た。皆が最善《ベスト》をつくして勧めたし、また多数の科学者も均しくこれを希望しておった。
 ファラデーは元来、物事を即決する気風の人で、自分もこれに気づいているので、重要の事はいつも考慮する時間を置いて[#「考慮する時間を置いて」に傍点]、しかる後に決定するというのを恒例[#「恒例」に傍点]にした。この時も恒例に従いて、返事は明日ということで、委員の代表者をかえした。
 翌朝、チンダルがファラデーの所に入って来ながら、「どうも心配です。」という。ファラデーは「何にが」という。「いや、昨日来た委員連の希望を御|諾《き》きにならないのではあるまいか。それが心配で。」と返事した。ファラデーは「そんな責任の重い位置につくことを勧めてくれるな。」という。チンダルは「いや、私はもちろんお勧めもするし、またこれを御受けになるのが義務と思います。」というた。
 ファラデーは物事をやす受け合いをすることの出来ない性質で、やり出せば充分にやらねば気がすまない[#「やり出せば充分にやらねば気がすまない」に傍点]し、さもなければ初めからやらないという流儀の人である。それで当時のローヤル・ソサイテーの組織等について多少満足しておらない点があった。それゆえ、会長になれば必ず一と悶着《もんちゃく》起すにきまっているので、「おいそれ」と会長にはならなかったのだ。もちろん、改革に着手するとなれば、ファラデー側の賛成者もあることは確なのである。そんな事で、チンダルは大いに勧めては見た。そのうちにファラデー夫人もはいって来た。これは夫の意見に賛成した。結局ファラデーは辞退してサー・ベンジャミン・ブロージーが会長になった。
 かような理由で、ファラデーは会長にはならなかったが、今日でもローヤル・ソサイテーには委員連がファラデーに会長就任を勧めている所の油画がかけてある[#「油画がかけてある」に傍点]。ファラデーになって見れば、会長になったからというて別に名誉が加わりもしなかったろう。却《かえ》ってローヤル・ソサイテーがファラデーを会長になし得なかったことを残り惜しく思うだけである[#「なし得なかったことを残り惜しく思うだけである」に傍点]。また王立協会でも、会長のノーサムバーランド侯が死んだとき、幹事連はファラデーを会長に推選したが、この方も断った。英国科学奨励会の会長にもならなかった。

     四九 研究と著書

 ファラデーの研究は非常に多い。題目だけで百五十八[#「題目だけで百五十八」に傍点]で、種々の雑誌や記事に発表してある。短い物も多いが、しかし、そういうものの中にも重要なのがある。また金曜講演の要点を書き取ったような物もその中にある。しかし非常に注意して行うた実験もある。
 ことに電気に関する実験的研究[#「実験的研究」に傍点]の約三十篇の論文は、その発表も二
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