ファラデーの伝
電気学の泰斗
愛知敬一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)聳《そび》ゆる

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(例)化学|叢話《そうわ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)電磁気※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]転

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)アカデミー 〔Acade`mie.〕 学士院。
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#ファラデーの肖像画の挿絵(fig46340_01.png)入る]
[#改丁]

     序

 偉人の伝記というと、ナポレオンとかアレキサンドロスとか、グラッドストーンというようなのばかりで、学者のはほとんど無いと言ってよい。なるほどナポレオンやアレキサンドロスのは、雄であり、壮である。しかし、いつの世にでも[#「いつの世にでも」に傍点]ナポレオンが出たり、アレキサンドロスの出ずることは出来ない。文化の進まざる時代の物語りとして読むには適していても、修養の料にはならない[#「修養の料にはならない」に傍点]。グラッドストーンのごときといえども、一国について見れば二、三人あり得るのみで、しかも大宰相たるは一時に一人のみ[#「一時に一人のみ」に傍点]しか存在を許さない。これに反して、科学者や哲学者や芸術家や宗教家は、一時代に十人でも二十人でも存在するを得、また多く存在するほど文化は進む[#「また多く存在するほど文化は進む」に傍点]。ことに科学においては、言葉を用うること少なきため、他に比して著しく世界的に共通で[#「世界的に共通で」に傍点]、日本での発見はそのまま世界の発見であり、詩や歌のごとく、外国語に訳するの要もない。
 これらの理由により、科学者たらんとする者のために、大科学者の伝記があって欲しい[#「大科学者の伝記があって欲しい」に傍点]。しかし、科学者の伝記を書くということは、随分むずかしい[#「むずかしい」に傍点]。というのは、まず科学そのものを味った人であることが必要であると同時に多少文才のあることを要する。悲しいかな、著者は自ら顧みて、決してこの二つの条件を備えておるとは思わない。ただ最初の試みをするのみである。
 科学者の中で、特にファラデーを選んだ理由は、第一[#「第一」に傍点]に彼は大学教育を受けなかった人で、全くの丁稚小僧から成り上ったのだ。学界にでは家柄とか情実とかいうものの力によることがない、腕一本でやれるということが明かになると思う。また立身伝ともいえる。次に[#「次に」に傍点]彼の製本した本も、筆記した手帳も、実験室での日記も、発見の時に用いた機械も、それから少し変ってはいるが、実験室も今日そのまま残っている。シェーキスピアやカーライルの家は残っている。ゲーテ、シルレルの家もあり、死んだ床も、薬を飲んだ杯までもある(真偽は知らないが)。ファラデーのも、これに比較できる位のものはある。科学者でファラデーほど遺物のあるのは[#「遺物のあるのは」に傍点]、他に無いと言ってよい[#「他に無いと言ってよい」に傍点]。それゆえ、伝記を書くにも精密に書ける。諸君がロンドンに行かるる機会があったら、これらの遺物を実際に見らるることも出来る。
 第三に[#「第三に」に傍点]、何にか発見でもすると、その道行きは止めにして、出来上っただけを発表する人が多い。感服に値いしないことはないが、これでは、後学者が発見に至るまでの着想や推理や実験の順序方法について[#「発見に至るまでの着想や推理や実験の順序方法について」に傍点]、貴ぶべき示唆を受けることは出来ない。あたかも雲に聳《そび》ゆる高塔を仰いで、その偉観に感激せずにはいられないとしても、さて、どういう足場を組んで、そんな高いものを建て得たかが、判らないのと同じである。
 ファラデーの論文には、いかに考え、いかに実験して、それでは結果が出なくて[#「結果が出なくて」に傍点]、しまいにかくやって発見した、というのが、偽らずに全部書いてある。これでこそ発見の手本に[#「発見の手本に」に傍点]もなる。
 またファラデーの伝記は決して無味乾燥ではない。電磁気廻転を発見して、踊り喜び、義弟をつれて曲馬見物に行き、入口の所でこみ合って喧嘩[#「喧嘩」に傍点]をやりかけた壮年の元気は中々さかんである。莫大の内職をすて[#「莫大の内職をすて」に傍点]、[#「莫大の内職をすて[#「莫大の内職をすて」に傍点]、」は底本では「莫大の内職をすて、[#「大の内職をすて、」に傍点]」]宴会はもとより学会にも出ないで、専心研究に従事した時代は感嘆するの外はない、晩年に感覚も鈍り、ぼんやりと[#「ぼんやりと」に傍点]椅子《いす》にかかりて、西向きの室から外を眺めつつ日を暮らし、終に眠るがごとくにこの世を去り、静かに墓地に葬られた頃になると、落涙を禁じ得ない。
 前編に大体の伝記を述べて、後編に研究の梗概《こうがい》を叙することにした。
    大正十二年一月[#地から5字上げ]著者識す。
[#改丁]

     目次

  前編 生涯

    生い立ち

一 生れ
二 家系
三 製本屋
四 タタムの講義
五 デビーの講義
六 デビーに面会
七 助手
八 勉強と観察
九 王立協会
一〇 王立協会の内部
一一 王立協会の講義

    大陸旅行

一二 出立
一三 フランス
一四 イタリア入り
一五 スイス
一六 デビー夫人
一七 デ・ラ・リーブ
一八 旅行の続き

    中年時代

一九 帰国後のファラデー
二〇 デビーの手伝い
二一 自分の研究
二二 研究の続き。電磁気※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]転
二三 サンデマン宗
二四 サラ・バーナード嬢
二五 結婚
二六 幸福なる家
二七 ローヤル・ソサイテーの会員
二八 講演
二九 協会の財政
三〇 ファラデーの収入
三一 千五百万円の富豪
三二 年金問題

    研究と講演

三三 研究室で
三四 研究の方針
三五 学者の評
三六 実験して見る
三七 実験に対する熱心
三八 発見の優先権
三九 学界の空気
四〇 実用
四一 講演振り

    晩年時代

四二 一日中の暮し
四三 病気
四四 保養
四五 しなかった事
四六 訪問と招待
四七 質問
四八 ローヤル・ソサイテーの会長
四九 研究と著書
五〇 名誉
五一 宗教
五二 狐狗狸《こくり》の研究
五三 晩年
五四 終焉
五五 外見

  附記
    ルムフォード伯
    サー・ハンフリー・デビー
    トーマス・ヤング

  後編 研究

    研究の三期

   第一期の研究

一 諸研究
二 電磁気※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]転
三 手帳
四 ガスの液化
五 ガラスの研究

   第二期の研究

六 磁気から電流
七 アラゴの発見
八 感応電流の発見
九 結果の発表
十 その後の研究
一一[#「一一」は底本では「一〇」] 媒介物の作用
一二 その他の研究
一三 電気分解
一四 静電気の研究
一五 その後の研究

   第三期の研究

一六 光と電磁気との関係
一七 磁気に働かるる光
一八 磁性の研究
一九 光の電磁気説
二〇 その他の研究
二一 再び感応電流
二二 晩年の研究
二三 研究の総覧

    年表
    参考書類
    地名、人名、物名の原語
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前編 生涯
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      生い立ち

     一 生れ

 前世紀の初めにロンドンのマンチエスター・スクエーアで、走り廻ったり、球をころがして遊んだり、おりおり妹に気をつけたりしていた子供があった。すぐ側のヤコブス・ウエルス・ミュースに住んでいて、学校通いをしていた子供なのだ。通りがかりの人で、この児に気づいた者は無論たくさんあったであろうが、しかし誰れ一人として、この児が成人してから、世界を驚すような大科学者になろうと思った者があろうか。
 この児の生れたのは[#「生れたのは」に傍点]今いうたミュースではない。只今では大ロンドン市の一部となっているが、その頃はまだロンドンの片田舎に過ぎなかったニューイングトン・ブットが、始じめて呱々《ここ》の声をあげた所で、それは一七九一年九月二十二日[#「一七九一年九月二十二日」に傍点]のことであった。父はジェームス・ファラデーといい、母はマーガレットと呼び、その第三番目の子で、ミケルという世間には余り多くない名前であった。父のジェームスは鍛冶職人《かじしょくにん》で、身体も弱く、貧乏であったので、子供達には早くからそれぞれ自活の道を立てさせた。
[#「ヤコブス・ウェルス・ミュースの家」の挿絵(fig46340_02.png)入る]

     二 家系

 ファラデーの家はアイルランドから出たという言い伝えはあるが、確かではない。信ずべき記録によると、ヨークシャイアのグラッパムという所に、リチャード・ファラデーという人があって、一七四一年に死んでいるが、この人に子供が十人あることは確かで、その十一番目の子だとも、または甥だともいうのに、ロバートというのがあった。一七二四年に生れ、同八六年に死んでいるが、これが一七五六年にエリザベス・ジーンという女と結婚して、十人の子を挙げた。その子供等は百姓だの、店主だの、商人だのになったが、その三番目[#「三番目」に傍点]に当るのが一七六一年五月八日に生れたジェームスというので、上に述べた鍛冶屋さんである。ジェームスは一七八六年にマーガレット・ハスウエルという一七六四年生れの女と結婚し、その後間もなくロンドンに出て来て、前記のニューイングトンに住むことになった。子供が四人[#「子供が四人」に傍点]できて、長女はエリザベスといい一七八七年に、つづいて長男のロバートというのが翌八八年に、三番目[#「三番目」に傍点]のミケルが同九一年に、末子のマーガレットは少し間をおいて一八〇二年に生れた。
 一七九六年にミュースに移ったが、これは車屋の二階のささやかな借間であった。一八〇九年にはウエーマウス町に移り、その翌年にジェームスは死んだ。後家さんのマーガレットは下宿人を置いて暮しを立てておったが、年老いてからは子供のミケルに仕送りをしてもらい、一八三八年に歿《な》くなった。

     三 製本屋

 かように家が貧しかったので、ミケルも自活しなければならなかった。幸いにもミュースの入口から二・三軒先きにあるブランド町の二番地に、ジョージ・リボーという人の店があった。文房具屋[#「文房具屋」に傍点]で、本や新聞も売るし、製本もやっていた。リボーは名前から判ずると、生来の英国人では無いらしい。とにかく、学問も多少あったし、占星術も学んだという人である。
 一八〇四年にミケルは十三歳[#「十三歳」に傍点]で、この店へ走り使いをする小僧に雇われ、毎朝御得意先へ新聞を配ったりなどした。骨を惜しまず、忠実に働いた。ことに日曜日には[#「日曜日には」に傍点]朝早く御用を仕舞って、両親と教会に行った。この教会との関係はミケルの一生に大影響のあるもので、後にくわしく述べることとする。
 一年してから、リボーの店で製本の徒弟[#「製本の徒弟」に傍点]になった。徒弟になるには、いくらかの謝礼を出すのが習慣になっていた。が、今まで忠実に働いたからというので、これは免除してもらった。
 リボーの店は今日でも残っているが、行って見ると、入口の札に「ファラデーがおった」と書いてある。その入口から左に入った所で、ファラデーは製本をしたのだそうである。
 かように製本をしている間に、ファラデーは単に本の表紙だけではなく、内容までも[#
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