一、二人会葬したばかりであった」に傍点]。
 墓標にも簡単に、
[#天から11字下げ]一七九一年九月二十二日生れ
[#天から2字下げ]ミケル・ファラデー
[#天から11字下げ]一八六七年八月二十五日死す
[#ファラデーの墓標の挿絵(fig46340_06.png)入る]
 日輪が静に地平線より落ち行きて、始めて人の心に沈み行く日の光の名残が惜しまれる。せめて後の世に何なりと記念の物を残そうということが心に浮ぶ。
 ファラデーが死んでから、記念のため化学会では、「ファラデー講師」なるものをつくり、パリにはファラデー町が出来、ロンドンにもファラデー学会が出来た。グラッドストーンは伝を書いた。チンダルも伝を書いた。またベンス・ジョンスは手紙を集めて出版し、その後シルベナス・トンプソンも伝を書いた。

     五五 外見

 ファラデーに、ほんとうによく似た写真や、肖像画は無いといわれている[#「無いといわれている」に傍点]。これは写真や画の出来《でき》が悪いという意味ではないので、ファラデーの顔の生き生きして、絶えず活動せるのを[#「活動せるのを」に傍点]表わし得ないというためなそうだ。
 この本に入れてあるのは五十歳位の時の写真で、ファラデーの働き盛りの時代のものである。その少し後に、チンダル教授の書いたのには、「ファラデーは身の丈《た》けは中位より少し低い。よく整っていて、活溌で、顔の様子が非常に活き活きしている。頭の形が変っていて[#「頭の形が変っていて」に傍点]、前額から後頭までの距離が非常に長く、帽子はいつも特別に注文した。初めは頭髪が褐色で、ちぢれておったが、後には白くなった。真中から分けて、下げていた。」
 晩年に、病後のファラデーの講演を聴いたポロック夫人の書いたものによると、「髪の毛も白く長くなり、顔も長く、眼も以前は火のように輝いていたがそうでなくなった。顔つきは、画や像にあるネルソンのに何となく似ているようだ。」

 ファラデーの生涯を書き終るに当り、王立協会の設立や、その他関係の深かった一、二の人について、ちょっと書き添えて置こう。

     ルムフォード伯

 名はベンヂャミン・トンプソン。ベンヂャミン・フランクリンと同名であり、時代も近いし、両方ともアメリカのボストンに近い所で生れた。ルムフォードの生れたのは一七五三年三月二十六日で、父は早く死んだが、幼い時から科学や数学が好きでかつ上手であった。コンコード(またルムフォードとも呼ぶ)から教師に呼ばれたのが十九歳[#「十九歳」に傍点]の時で、風采が美しかったが、金持のロルフ大佐の寡婦《かふ》と結婚した。このとき夫人は三十三歳[#「夫人は三十三歳」に傍点]である。その中にアメリカ独立戦争が起ったが、知事のウエントオースはルムフォードの馬に乗った姿を見て気に入り、一躍して少佐にした。しかし友人から猜《そね》まれて、独立軍に忠実でないという嫌疑を受け、調べられたりしたので、終《つい》に一七七五年に英国に逃げて来て(妻子は置いたまま)、殖民省の官吏になった。またとんとん拍子で出世して、四年の内には次官にまで昇進した。この間に科学の研究をし、ことに火薬の研究が有名で、ローヤル・ソサイテーの会員[#「会員」に傍点]にも推選された。一七八二年には、大佐に任命されて、アメリカにおる英国の騎兵隊の総指揮官になり、威風堂々とニューヨルクに繰り込み独立軍と戦いに来た[#「独立軍と戦いに来た」に傍点]。
 しかし、アメリカは独立したので、翌年英国に帰った。うまい事もないので、オーストリアとトルコとの戦争に加わって、一と旗あげよう[#「一と旗あげよう」に傍点]と思い立ち、出かけたが、途中でストラスブルグを過ぐる時、ババリアのマキシミリアン王子がフランスの大将という資格で観兵式をやっている所を通りかかった。マキシミリアンはルムフォードの雄々しい姿を見て呼びとめ、話をしている裡《うち》に、アメリカの独立戦争の時に対手方であったこともわかり、マキシミリアンは叔父の選挙公にあてた推挙状をくれた。それでババリアに仕えることになり、英国王の許可を受けたが、このとき英国王は彼をナイトに叙した[#「ナイトに叙した」に傍点]。一七八四年のことで、年は三十一歳[#「年は三十一歳」に傍点]であった。それからババリアで、陸軍大臣[#「陸軍大臣」に傍点]、警視総監[#「警視総監」に傍点]、侍従兼任[#「侍従兼任」に傍点]という格で、軍隊の改革をやる、兵器の改良をやる、貧民の救助をやる、マンハイムやミュンヘンあたりの沼地を開拓するという風で、非常に敏腕を振った[#「非常に敏腕を振った」に傍点]。大砲の改良につきて研究していたとき、砲身に孔を開ける際に熱を出すのを見て、仕事より熱の生ずる[#「仕事より熱の生ずる」に傍点]ことを言い出したのは有名な発見であるが、一方では、貧民は富ましてしかる後に教うべしというので、暖炉の改良、食物の改良をもやった。功によりて一七九一年には、三十八歳[#「三十八歳」に傍点]で神聖ローマ帝国の伯爵[#「神聖ローマ帝国の伯爵」に傍点]になり、出身地の名をとって、ルムフォード伯と呼ぶことになった。一時、病気の重かったときにも、貧民が多勢で教会に行って全快の御祈りをするというような、非常な人望であった。十一年振りで英国に帰ったが、その時もアイルランドに行って、貧民の生活状態を視察した。アメリカに置いて来た十九歳の娘を呼んで、共にミュンヘンにつれ帰ったが、丁度フランスオーストリアの戦争で、選挙公はミュンヘンから逃げ出したので、ルムフォードが選挙公の代理として総指揮官となり、ミュンヘンを防ぎ、中立を厳守して、フランスオーストリア両軍とも市内に入れさせなかった。
 それから、ロンドンへ全権公使として行くことになったが、英国王が承知しない。結局辞職してロンドンへ来た。おもな目的は王立協会の設立で[#「王立協会の設立で」に傍点]、貧民の生活改善のため、煖房とか料理法の改良とか、主として熱に関した応用を研究しようというつもりであった。一七九九年に約五十枚にわたる趣意書を発表し、会員組織にして、五十ギニーの寄附金を出した者は永久会員として講演に列する入場券二枚をもらい、十ギニーの者は終身会員で入場券一枚、二ギニーの者は一個年会員というようにし、また幹事九名は無給で、投票によることにした。同三月七日にローヤル・ソサイテーの会長たるサー・ジョセフ・バンクスの宅で集ったのが初めで、永久会員も五十八名出来、また幹事なども定り、おもにルムフォード伯とベルナードとが世話をやいた。一八〇〇年一月十三日、国王は免許状に調印され、かつ協会の賛助員となられ、ウインチルシー伯が会長となり、教授にはガーネットが任命され、家を買ったり、器械を備えつけることなどの世話は、ルムフォード伯がやった。
 またルムフォード伯はデビー[#「デビー」に傍点]の評判を聞き、ロンドンに招いて数回面会し、一八〇一年二月十六日、化学の助教授、化学実験所長兼王立協会記事の副編纂係とし、年俸百ギニーで雇い、講演は三月十一日より開始とした。その後ガーネットは辞したので、デビーは化学の教授[#「化学の教授」に傍点]になった。また同年八月三日、物理学の教授、王立協会記事編纂係兼実験場の管理人として、トーマス[#「トーマス」に傍点]・ヤング[#「ヤング」に傍点]を入れた。年俸は三百ギニー。ヤングは講演が上手でなく、二、三年ほどいて辞職したが、光の波動説の大家として、今日までも有名な人である。デビーの方は講演も非常に上手であり、これがため王立協会が有名になり、盛んにもなった。
 王立協会もかくして大体出来たので、ルムフォード伯は一八〇三年にパリ[#「パリ」に傍点]に行った。フランスで有名な化学者にラボアジェーという人があったが、革命のときに(一七九四 五月八日)断頭台で殺された。その未亡人は三百万フランも財産[#「未亡人は三百万フランも財産」に傍点]があり、交際場裡の花[#「交際場裡の花」に傍点]であったが、この頃は四十六、七歳で、ルムフォード伯より四つ位若かった。この婦人と心易くなり、ババリアの選挙公の仲介を以て、一八〇五年十月二十四日に結婚した。しかし、二人は折り合いが悪く、四年後にわかれた[#「わかれた」に傍点]。この後、ルムフォード伯は自宅に引っ込み勝ちで、ことにラグランヂュの歿後《ぼつご》は、二、三の友人(ことにキュービエー)と交わっただけで、一八一四年八月二十一日にパリで死んだ。
 ルムフォード伯の功業は、ヴィーデンという大将とデビーとを見出した事であると謂われるが、ヤングもまたルムフォードに見出された一人である。
           ――――――――――――
 サー・ハンフリー・デビーは一七七八年十二月十七日生れで、父は早く死んだが、非常に早熟で[#「非常に早熟で」に傍点]、文学にも科学にも秀いで[#「文学にも科学にも秀いで」に傍点]、十七歳の時には、氷の二片を合わせてこすると溶けるのを見て、「熱は物体にあらず」という説を発表した。その後、ある病院の管理をして、「笑気」のことを研究した。ルムフォード伯に招かれて、ロンドンに来たのは一八〇一年、二十三歳の時で、まだ山出しの蛮からであったが、根が才気のはじけた人間であるから、講演振りも直ちに上手になり、その講演には上流の人達が争うて聴きに来るようになり一千人にも上ることがあった。そんな訳で、当時の人々から大層崇拝されるようになった。電池の研究をしたり、電気分解によりポタシウムやソヂウムを発見した。三十四歳[#「三十四歳」に傍点]のときには既に才名一世に鳴りひびいて[#「才名一世に鳴りひびいて」に傍点]、ナイトに叙せられた。その後、間もなくアプリースという才色兼備の金持の寡婦と結婚した[#「寡婦と結婚した」に傍点]。そこで王立協会の教授をやめて、代りにブランドを入れ、自分は単に名誉教授となって、夫人およびファラデーをつれて、大陸に旅行し、帰ってからは、安全灯の発明があり、一八三〇年より七個年の間、ローヤル・ソサイテーの会長になった。しかし、健康が良くないので、再び大陸に旅行したが夫人は同行を承知しなかった。イタリアのローマで一度危篤に陥ったが、ゼネバまで帰ったとき、前に同僚であったヤングの死去の報を聞いたが、その夜自分も中風で死んだ。一八二九年五月二十九日である。享年五十一。
 詩人カレッヂが評していうのに、「デビーは一流の化学者にならなくとも、一流の詩人に[#「一流の詩人に」に傍点]なったであろう」と。旅行中に詩も作ったし、「旅中の慰め」という散文もある。
           ――――――――――――
 トーマス・ヤングは一七七三年七月十三日生れで、十四、五歳のときには、既にオランダ、ギリシャ、フランス、イタリア、ヘブライ、ペルシア、アラビア語を読んだ。ドイツのゲッチンゲンや、英国のキャンブリッジで医学を修めた。一八〇〇年には光の波動説[#「光の波動説」に傍点]を発表し、翌一八〇一年からルムフォード伯に招かれて王立協会に来たが、二年もしないでやめた。理由は、医学の方面の勉強が遅れるからというので、一八〇三年医学博士 M.B. になり、後またセント・ジョージ病院の医師となった。王立協会におった時期は短かかったが、その間にやった講義録や発表した論文は、いずれも有名[#「有名」に傍点]なものである。また後には、エジプトの象形文字[#「エジプトの象形文字」に傍点]の研究が有名である。天才というべき人で[#「天才というべき人で」に傍点]、一八二九年五月十日に死んだ。
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[#ここから5字下げ、ページの左右中央]
後編 研究
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      研究の三期

 ファラデーの研究は始終を通じて、実に四十四年の永き[#「四十四年の永き」に傍点]にわたる。すなわち一八一六年の生石灰の研究を振り出しに、同六〇年より六二年の頃に研究して結果の未定に終った磁気と
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