重力との関係、並びに磁気と光との関係に終る。この間に発表した論文は数多く、題目を列べただけで、数頁にわたる。けれども電気磁気に関する重要なる論文は、「電気の実験研究」と題する三巻の本におさめられ、電気磁気以外のおもなるものは、「化学および物理学の実験研究」と題する一冊の本におさめられている。
 今便利のため、この四十四年を三期に分とう[#「三期に分とう」に傍点]。第一期[#「第一期」に傍点]は一八一六年より三〇年に至り、種々の方面の研究をした時期で、後の大発見の準備時代と見るべきもの。次は[#「次は」に傍点]一八三一年より三九年に至る間で、電磁気学上における重大の発見に[#「重大の発見に」に傍点]、続ぐに重大の発見を以てした黄金時代[#「続ぐに重大の発見を以てした黄金時代」に傍点]とも見るべきもの。遂《つい》に健康を害して、しばらく休養するの止むなきに至った。再び健康を回復して研究に従事したる、一八四四年より六〇年を第三期[#「第三期」に傍点]とし、この間に磁気と光との関係並びに反磁性の大発見をなした。

    第一期の研究

 第一期に関する研究の大要を、年を逐うて述べよう。

     一 諸研究

 一八一六年に生石灰を分析して、その結果を「科学四季雑誌」に出した。余り重要なものではないが、始めて[#「始めて」に傍点]という意味で、「化学および物理学の実験研究」におさめてある。これより二、三年間は、主としてデビーの研究を助けたり、デビーやブランドの講義の準備に忙殺されていたが、多少の研究は出した。すなわち、毛細管よりガスの流出することに関するもの、発音焔に関する実験、シリウム並びにヴェスチウムの分析等である。一八一九年から翌二〇年にかけては、錆びない鋼鉄を造ろうとし、これに白金、金、銀、ニッケル等のごく少量を加えて、いろいろ試験を施したが、結果は不成功に終り、ただ知り得たのは、鋼鉄は僅少の混合物によって、その性質に多大の変化を生ずるということに過ぎなかった。
 この外、塩素と炭素との化合物や、ヨウ素と炭素と水素との化合物について研究し、また木炭より黒鉛をつくる研究もやった。

     二 電磁気廻転

 一八二〇年は電気学上特筆すべき事で、すなわちエールステッドが電流によって磁針の振れることを発見した年である。
 ボルタが電流を発見してから、電流と磁気との間に何等かの関係あるべきことを考えた人は多かったが、みな成功しなかった。エールステッドは他の人よりも、強い電流の通れる針金を取って実験したため、この発見をしたのである。そこで電流の通れる針金を磁針に平行[#「平行」に傍点]にして、その上方に置いたり、下方に置いたり、また針金を磁針に直角[#「直角」に傍点]にして、上に置いたり、下に置いたりして、種々研究した結果、終《つい》に「電気の作用は廻わすように働く[#「廻わすように働く」に傍点]」という定律を見出した。今日より見れば、極めて不充分な言い表わし方ではあるが、とにかく、偉大な発見であった。
 デビーもこの発見の記事を読んで、早速実験に取りかかり、電流の通れる針金に横に[#「横に」に傍点]鉄粉の附着することを確めた。
 この時代は、ニュートンの引力説が全盛の時代であったから、電流が己《おの》れの方へ直接に[#「直接に」に傍点]働くことなく、己れと直角の方向へ働いて[#「直角の方向へ働いて」に傍点]、横に[#「横に」に傍点]磁針をまげるということは、余程奇妙に感ぜられたものと見える。
 翌一八二一年は、ファラデーが結婚した年であるが、また一方においては、電磁気廻転の実験[#「電磁気廻転の実験」に傍点]に成功した年でもある。初めウォーラストンは、電流の通ずる針金のあるときは、磁極をこれに近づくれば、針金は自己の軸のまわりで廻転を始めるだろうと考えて、実験したが、成功しなかった。
 その頃、ファラデーは電磁気の作用の歴史を某雑誌に出しつつあった関係上、それらの実験を繰りかえして試み、これが動機となって、次の実験に成功した。すなわち、下端を水銀の皿に入れ、上端を吊してある針金に、電流を通ずると、中央にある磁極のまわりを廻転し出すということである。また反対に電流の通ずる針金の位置を固定し置けば、磁極の方がそのまわりを廻転する。これがウォーラストンの企てた実験に外ならぬという誤解を生じたのだが、実はウォーラストンのとは全く違った実験なのである。
 この実験に成功したのは九月三日のことで、この日の出来事は既に前にも記した通りである。
 その十二月には、地球の磁力[#「地球の磁力」に傍点]によりて、電流の通れる針金の廻転することをも確かめ、翌年も引きつづきこの方面の研究に没頭した。

     三 手帳

 以前からファラデーは種々の本を読んだときに、面白いと思うた事を手帳に[#「手帳に」に傍点]書き抜いておったが、この頃からは自分の心に浮んだ考をも書き始めることにした。その中に次のようなのがある。
「磁気を電気に変えること。」
「金属の透明なること。」
「太陽の光を金箔に通すこと。」
「二つの金箔を電気の極にして、その間に光を一方から他方へ通すこと。」
 これらは、後になってファラデーのやった大発見の種子とも見るべきものである。
 後にこの手帳を製本させて、その表紙に書きつけたのに、
「予はこの手帳に負う処が多い。学者は誰れでもかかるものを集め置くのがよい。一年も引きつづいて、やっておれば、左まで面倒とは思わなくなるだろう。」

     四 ガスの液化

 一八二二年に、ファラデーは塩素ガスを液体[#「塩素ガスを液体」に傍点]にした。デビーは以前から、塩素の固体といわれているものは加水塩化物に外ならずというておった。ファラデーはその分析を始めたが、デビーに見せたら、「ガラス管に封じ込んで圧力を加えたまま、熱して見たらどうか。」と言うた。別に、どうなるだろう[#「どうなるだろう」に傍点]という意見は言わなかった。ファラデーはその通りにして熱して見たら、ガラス管の内には、液体が二つ出来た。一つは澄んで水のような物で無色である。他は油のような物であった。デビーの友人のパリスという人が丁度このとき実験室に来合せて、それを見て戯談半分に、「油のついている管を使ったからだ。」と言った。
 すぐあとで[#「すぐあとで」は底本では「すぐ あとで」]ファラデーが管を擦《こす》ったら、破れて口が開いたが、油のような液は見えなくなって[#「見えなくなって」に傍点]しまった。これは前にガラス管を熱したとき、塩素のガスが出たが自己の圧力が強かったため、液化してしまい[#「液化してしまい」に傍点]、油のようになっていたのだ。ところが、今管に口が開いて圧力が減じたので、再びもとの塩素ガスに[#「もとの塩素ガスに」に傍点]なって、飛散してしまったのである。
 翌朝パリスはファラデーから次の簡単明瞭な手紙を受け取った。
「貴殿が昨日油だと言われし物は、液体の塩素に相成り申候。 ファラデー」
 かく、自己の圧力を使うて液体にする方法は、その後デビーが塩酸に用いて成功[#「成功」に傍点]し、ファラデーもまたその他のガス体を液化するに用いて成功[#「成功」に傍点]した。
 しかし、これは随分危険な実験で、ファラデーも怪我をしたことがあり、一度はガラスの破片が十三個も眼に入ったことがある。
 これらの実験があってから、どのガス体でも、ことにその頃まで永久ガス[#「永久ガス」に傍点]といわれておったものでも、充分な圧力と冷却を加えれば、液体とも固体ともなることが判明した。
 翌一八二四年には、油に熱を加えて分解して、ベンジン[#「ベンジン」に傍点]を得た。このベンジンからアニリンが採れるので、従って今日のアニリン色素製造の大工業の基礎になった発見というてもよい。
 この年、ローヤル・ソサイテーの会員[#「会員」に傍点]になった。その次第は前に述べた。

     五 ガラスの研究

 翌年にはローヤル・ソサイテーが、ヘルシェル、ドロンド、並びにファラデーの三人に、光学器械に用うるガラス[#「光学器械に用うるガラス」に傍点]の研究を依頼した。化学の部分はファラデーが受け持ち、ドロンドは器械屋の立場から試験を行い、ヘルシェルは天文学者なので、光学の方面から調べるというつもりであった。五年間引きつづいて研究をした。
 これに聯関して起った事件は、一八二七年にファラデーの実験室に炉を造ったので、その番人に砲兵軍曹のアンデルソンという人を入れた事である。ガラスの研究が済んだ後も、引き続いてファラデーの助手[#「助手」に傍点]をつとめ、一八六六年に死ぬまでおった。良く手伝いをした人だが、その特長というべきは軍隊式の盲従であった[#「軍隊式の盲従であった」に傍点]。
 アボットの話に、次のような逸話がある。アンデルソンの仕事は炉をいつも同じ温度に保ち、かつ灰の落ちる穴の水を同じ高さに保つのであるが、夕方には仕舞って、何時も家に帰った。ところが、一度ファラデーは帰って宜しいということをすっかり忘れておった。翌朝になって、ファラデーが来て見ると、アンデルソンは一夜中[#「一夜中」に傍点]、炉に火を焚き通しにしておった。
 この年、デビーの推選で、協会の実験場長[#「実験場長」に傍点]に昇進し、従って講義の際に助手をしなくてもよくなった。
 一八二九年には、ガラスの研究の結果について、バーカー記念講義をなし、翌年に研究を終って報告[#「報告」に傍点]を出した。ローヤル・ソサイテーでは、良いガラスは出来たが、もっと大きいのを造ることを考えてくれという注文であったが、ファラデーは他の方面の仕事が急がしいからというて、断わった。それゆえ、大きいレンズを作って、望遠鏡の改良をするというような実用的の成功までには至らなかった。しかし、万事塞翁が馬で[#「塞翁が馬で」に傍点]、未来の事はちょっとも分らぬものである。ファラデーがこの際作った鉛の硼硅酸塩ガラスがある。重ガラスといわれるものであるが、このガラスの切れを使って、後にファラデーは磁気の光に対する作用[#「磁気の光に対する作用」に傍点]や、反磁性[#「反磁性」に傍点]を見つけることに成功したのである。それゆえもしこのガラスが無かったならば、この二大発見はもっと遅れた筈[#「もっと遅れた筈」に傍点]だともいえる。
 ガラスの研究をやっておった間にも、ファラデーは他の研究もした。すなわち、ナフサリンを硫酸に溶して、サルホ・ナフサリック酸を作ったり、「化学の手細工」という本を書いたりした。
 これで、ファラデーの研究の第一期は終った。この間に発表した論文は約六十で[#「六十で」に傍点]、その中六つがおもなもので、発見としては、化学の方で、ベンジンとサルホ酸。物理の方では、塩素の液化と電磁気廻転とである。

    第二期の研究

     六 磁気から電流

 ファラデーは電磁気廻転を発見してから、電流と磁気との関係について、深く想いを潜めておった。もちろん、この関係に想いをめぐらしていた者は、ただにファラデーのみでなく、他にも多くあった。その中で成功した一人はスタルゲヲンで、電磁石[#「電磁石」に傍点]の発見をした。鉄心を銅線で巻き、銅線に電流を通ずると、鉄心が磁気を帯ぶるというのである。
 かく、電流を用いて磁気を発生することが出来るからには、逆に磁気を用いて電流を起すことも出来そうなもの[#「磁気を用いて電流を起すことも出来そうなもの」に傍点]だと、ファラデーは考えた。前に述べた通り、一八二二年にも、ファラデーは手帳に、「磁気を電気に変えること」と書きつけた。一八二四年十二月[#「一八二四年十二月」に傍点]には、銅線のコイルの内に棒磁石を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]し込んで、いろいろと実験して見たが、結果は出て来なかった[#「結果は出て来なかった」に傍点]。翌二五年十一月にも[#「翌二五
前へ 次へ
全20ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
愛知 敬一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング