誤解しておった。
 この塩素の液化の発見の後に、ファラデーはローヤル・ソサイテーの会員[#「会員」に傍点]になろうと思った。会員になるには、まず推薦書[#「推薦書」に傍点]を作って、既に会員たる者の幾名かの記名を得てソサイテーに提出する。ソサイテーでは引き続きたる、十回の集会の際に読み上げ、しかる後に投票して可否[#「可否」に傍点]を決するのである。ファラデーのは、友人のフィリップスがこの推薦書を作り、二十九名の記名を得て、一八二三年五月一日に会に提出した。しかし、デビー並びにブランドの記名が無かった[#「記名が無かった」に傍点]。多くの人は、デビーは会長であり、ブランドは秘書だからだと思った。
 しかし、後にファラデーが人に話したのによると、デビーはこの推薦書を下げろ[#「下げろ」に傍点]とファラデーに言った。ファラデーは、自分が出したのではない、提出者が出したのだから、自分からは下げられないと答えた。デビーは「それなら、提出者に話して下げろ。」「いや、提出者は下げまい。」「それなら、自分はソサイテーの会長だから、下げる。」「サー・デビーは会長だから、会の為めになると思わるる様にされたらよい。」
 また、提出者の話にも、ファラデーを推薦するのはよくないという事をデビーが一時間も説いた。こんな風で、その頃のデビーとファラデーとの間はとかく円満を欠いておった。しかしその後になって、段々とデビーの感情もなおり、また一方で、ウォーラストンの誤解も分明になって、結局ただ一つの反対票[#「ただ一つの反対票」に傍点]があったのみで、翌一八二四年の一月八日に名誉ある会員に当選[#「当選」に傍点]した。
 デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもと[#「もと」に傍点]のようにやさしく無かった。やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後|逝《な》くなった。

     二八 講演

 一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理[#「代理」に傍点]をして好評を博した。これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。一八二五年二月には、王立協会の実験場長[#「実験場長」に傍点]になった。ブランドはやはり化学の教授であった。
 ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。後になっては、金曜日の夜[#「金曜日の夜」に傍点]に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。
 この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。これも今日残っている。
 また木曜日の午後[#「木曜日の午後」に傍点]には、王立協会の委員会[#「委員会」に傍点]があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。
 一八二七年のクリスマス[#「クリスマス」に傍点]には、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。この手扣《てびかえ》も今日まで保存されてある。これが有名な「クリスマスの講演」というのである。
 この年、化学教授[#「化学教授」に傍点]のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。
 これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った[#「断った」に傍点]。
 一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師[#「講師」に傍点]となり、一年に二十回講義を引き受けた。たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。講師としては非常に評判がよかった。一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。

     二九 協会の財政

 この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。しかし、王立協会の財政[#「財政」に傍点]は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。
 それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見[#「電磁気感応の大発見」に傍点]をした。この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)。これは減ずることは出来ない。またファラデーの熱心や能力に対して気の毒ではあるが、王立協会のただ今の財政では、これを増す余地は絶対にない」ということが書いてある。
 しかしその翌年に、下院議員のジョン・フーラーという人が金を寄附[#「金を寄附」に傍点]してくれて、新たに化学の教授を置くこととなり、ファラデーを終身官として、これを兼任させた。その年俸百ポンドで、今までの俸給の上にこれだけ増俸した事になった。実験費もいくぶん楽になった。その後に俸給もまた少し増した。
 ファラデーが年を取りて、研究や講演が出来なくなっても、王立協会の幹事は元通りファラデーに俸給も払い、室も貸して置いて、出来るだけの優遇[#「優遇」に傍点]をした。
 実際、王立協会はファラデーが芽生で植えられた土地で、ここにファラデーは生長して、天才の花は爛漫《らんまん》と開き、果を結んで、あっぱれ協会の飾りともなり、名誉ともなったのであるから、かく優遇したのは当然の事と言ってよい。

     三〇 ファラデーの収入

 しかし、年俸一百ポンドと室と石炭とロウソク。これがその頃のファラデーの全収入[#「全収入」に傍点]であったか。否、ファラデーは前から内職に化学分析をしておったので、これがよい収入になっていた。一八三〇年には、この方の収入が一千ポンド[#「一千ポンド」に傍点]もあった。そしてこの年に、電磁気感応の大発見をしたのである。
 それでファラデーは、自然界の力は時として電力となり、時として磁力となり、相互の間に関係がある。進んでこの問題を解いて大発見[#「大発見」に傍点]をしようか。それともまた、自分の全力をあげて、富をつくるに集中し、百万長者[#「百万長者」に傍点]となりすまそうか。富豪か[#「富豪か」に傍点]、大発見か[#「大発見か」に傍点]。両方という訳には行かぬ。いずれか一方に進まねばならぬ。これにファラデーは心を悩ました。
 結局、ファラデーの撰んだ途は、人類のために幸福であった。グラッドストーンの言ったように、「自然はその秘密を段々とファラデーにひらいて見せ、大発見をさせた[#「大発見をさせた」に傍点]。しかしファラデーは貧しくて死んだ[#「貧しくて死んだ」に傍点]。」

     三一 千五百万円の富豪

 チンダルが書いた本には、このときの事情がくわしく出ている。収入の計算書[#「収入の計算書」に傍点]までも調べたところが中々面白いので、多少重複にはなるが、そのままを紹介しよう。
「一八三〇年には、内職の収入が一千ポンド以上あった。翌年には、もっと増すはずであった。もしファラデーが増そうと思ったら、その翌年には五千ポンド[#「五千ポンド」に傍点]にすることは、むずかしくは無かったろう。ファラデーの後半生三十年間は、平均この二倍[#「平均この二倍」に傍点]にも上ったに相違ない。
「余がファラデーの伝を書くに際して、ファラデーの「電気実験研究」を繰りかえして見た。そのときふと、ファラデーが学問と富との話をしたことがあるのを想い起した。それでこの発見か富豪かという問題がファラデーの心に上った年代は[#「年代は」に傍点]いつ頃であったのか、と考え出した。どうも一八三一、二年の頃であるらしく思われた。なぜかというと、この後ファラデーのやった様に、盛んに発見をしつつ、同時に内職で莫大の収入を得るということは、人力の企て及ぶ所でないからだ。しかし、それも確かでないので、ファラデーの収入書が保存されてあるのを取り出して、内職の収入を調べて見た。
「案の定、一八三二年には収入が五千ポンドに増す所か、千九十ポンド四シリングから百五十五ポンド九シリング[#「百五十五ポンド九シリング」に傍点]に減じている。これから後は、少し多い年もあり少ない年もあるが、まずこの位で、一八三七年には九十二ポンド[#「九十二ポンド」に傍点]に減り、翌年には全く無い[#「全く無い」に傍点]。一八三九年から一八四五年の間には、ただの一度を除いては二十二ポンド[#「二十二ポンド」に傍点]を越したことがない。さらにずっと少ない年が多い。この除外の年というのは、サー・チャールズ・ライエルと爆発の事を調べて報告を出した年で、百十二ポンドの総収入があった。一八四五年より以後、死ぬまで二十四年の間は[#「二十四年の間は」に傍点]、収入が全くない[#「収入が全くない」に傍点]。
「ファラデーは長命であった。それゆえ、この鍛冶職の子で製本屋の小僧が、一方では累計百五十万ポンド[#「累計百五十万ポンド」に傍点](千五百万円)という巨富と、一方では一文にもならない科学と[#「一文にもならない科学と」に傍点]、そのいずれを撰むべきかという問題に出会ったわけだが、彼は遂に断乎として後者を撰んだのだ。そして貧民として一生を終ったのだ。しかしこれが為め英国の学術上の名声を高めたことは幾許《いくばく》であったろうか。」
 もっともこの後といえども、海軍省や内務省等から学問上の事を問い合わせに来るようなことがあると、力の許す限りは返答をした。一八三六年からは、灯台と浮標との調査につきて科学上の顧問となり、年俸三百ポンド[#「年俸三百ポンド」に傍点]をもらった。

     三二 年金問題

 一八三五年の初めに、総理大臣サー・ロバート・ピールは皇室費からファラデーに年金[#「年金」に傍点]を贈ろうと思ったが、そのうちに辞職してしまい、メルボルン男が代って総理となった。三月にサー・ジェームス・サウスがアシュレー男に手紙を送って、サー・ロバート・ピールの手元へファラデーの伝を届けた。ファラデーの幼い時の事が書いてある所などは、中々振っている。「少し財政が楽になったので、妹を学校にやったが、それでも出来るだけ節倹する必要上、昼飯も絶対に入用でない限りは食べない[#「昼飯も絶対に入用でない限りは食べない」に傍点]ですました」とか、また「ファラデーの初めに作った[#「初めに作った」に傍点]電気機械」の事が書いてある。ピールはこれを読んで、すっかり感心し[#「すっかり感心し」に傍点]、こんな人には無論年金を贈らねばならぬ、早くこれが手に入らないで残念な事をしたと言った。
 ところが、サー・ジェームス・サウスは再びこの伝記をカロリン・フォックスに送って、この婦人からホーランド男の手を経て、メルボルン男に差し出した。
 初めにファラデーはサウスに、やめてくれと断わりを言ったが、ファラデーの舅のバーナードが宥《なだ》めたので、ファラデーは断わるのだけはやめた。
 この年の暮近くになって、総理大臣メルボルン男からファラデーに面会したいというて来た。ファラデーは出かけて行って、まずメルボルン男の秘書官のヤングと話をし、それからメルボルン男に会うた。ところがメルボルン男はファラデーの人となりを全く知らなかったので、いきなり「科学者や文学者に年金をやるということはもともとは不賛成なのだ。これらの人達はいかさま師じゃ[#「いかさま師じゃ」に傍点]」と手酷しくやっつけた。これを聞くやファラデーはむっと怒り[#「むっと怒り」に傍点]、挨拶もそこそこに帰ってしまった。もしやメルボルン男が年金をよこす運びにしてしま
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