ッケル、硫黄から成ることを発表し、またベスチウムなる金属を分析しては「既知の元素を順次に取り去れば、ベスチウムは無くなってしまった[#「無くなってしまった」に傍点]」というた。
一方で研究をすると同時に、他方では講演も上手になろうと苦心し、スマート氏について雄弁術の稽古をし[#「雄弁術の稽古をし」に傍点]、一回に半ギニー(十円五十銭)の謝礼を払ってやった位、熱心であった。
二二 研究の続き。電磁気廻転
その後ファラデーは結婚した。この事は後にくわしく述べるとして、引きつづいてファラデーのしておった仕事について述べよう。
ファラデーの仕事は、ブランド教授が講義に見せる実験の器械を前以て備え置き、時間が来ると教授の右方に立って、色々の実験をして見せる[#「実験をして見せる」に傍点]。講義のない時は、化学分析をしたり、新しい化学の薬品を作ったり、また暇には新しい研究もした。
この数年間にやった新しい研究[#「新しい研究」に傍点]を述べると、まず塩素[#「塩素」に傍点]の研究をした。しかし、臭い黄色いガスを室の内に撒き散らすのではなくて、炭素と化合させたり、または液体にして、伝染病の消毒に使うというような事をした。次にはヨウ素[#「ヨウ素」に傍点]を研究した。やはり炭素や水素と化合させた。またナフサリンを強い酸に溶したりした。鋼鉄[#「鋼鉄」に傍点]の堅くて錆びないのを作ろうと工夫して、白金だの、その他の金属を少しずつ加えて見たが、これは成功しなかった。一番成功したのは電磁気廻転の実験[#「電磁気廻転の実験」に傍点]であった。
一八二〇年にエールステッドが電流の作用によりて磁針が動くのを発見したのが初まりで、電流と磁石との研究が色々と始まった。その翌年にファラデーは、電流の通れる針金を磁極の囲《まわ》りに廻転させる実験に成功した[#「成功した」に傍点]。これは九月三日[#「九月三日」に傍点]の事で、ジョージ・バーナードというファラデーの細君の弟も手伝っておったが、それがうまく行ったので、ファラデーは喜びの余り、針金の廻る傍で踊り出してしまい、「廻る! 廻る! とうとう成功したぞ!」といった。「今日の仕事はこれで切り上げ、どこかに行こう。どこがよい。」「アストレーに行って、曲馬でも見よう」と、大機嫌でバーナードを連れてアストレーに行った。これまでは宜かったが、土間の入口で大変に込み合い、大きな奴がバーナードを押しつけた。不正な事の少しも辛棒できないファラデーの事とて、とうとう喧嘩になりかけた。
この頃ファラデーの道楽[#「道楽」に傍点]は、自転車のようなベロシピードというものを造って、朝はやく郊外のハムステッド岡のあたりに出かけたり、夕方から横笛を吹いたり、歌を唄う仲間と一週に一回集ったりした。彼はバスを歌った。
二三 サンデマン宗
キリスト教の宗派はたくさんあるが、そのうちで最も世の中に知られない[#「知られない」に傍点]のはサンデマン宗であろう。
一七三〇年頃にスコットランドのプレスビテリアン教会の牧師にジョン・グラスという人があった。教会はキリストと使徒との教えのみにより支配さるべきもので、国教という様になりて国家と関係をつけるのは間違っている。吾等も新約聖書にあるだけ[#「あるだけ」に傍点]、すなわち初期のキリスト教徒の信じただけを信ずべきであると説いた。グラスと婿のサンデマンとがこの教旨を諸方に広めたので、この宗をグラサイトとも、またサンデマニアンともいう。
大体の教義については、清教徒に近く、礼拝の形式においてはプレスビテリアンに似ている。しかしこの宗の信者は他の教会と全く不関焉《かんせずえん》で、他宗の信者を改宗させるために伝道するというようなこともしない。それゆえ余り盛んにもならないでしまった。
ファラデーの父のジェームスがこの教会に属しており、母も(教会には入らなかったが)礼拝に行った関係上、まだ小児の時から教会にも行き、その影響を受けた[#「その影響を受けた」に傍点]ことは一と通りではなかった。
二四 サラ・バーナード嬢
この教会の長老にバーナードという人があって、銀細工師で、ペーターノスター・ローという所に住んでおった。その次男のエドワードとファラデーは親しかったので、その家に行ったりした。エドワードの弟にジョージというのがあり、後に水彩画家になった人だが、この外に三人の妹があった。長女はもはやかたづいてライド夫人となり、次女[#「次女」に傍点]はサラといいて、妙齢二十一才、三女のジェンはまだ幼い子であった。ファラデーは前から手帖に色々の事を書いておったが、その中に「愛」を罵《ののし》った短い歌の句などもたくさんあった。
ところが、これをエドワードが見つけて、妹のサラに話した。サラはファラデーに何と書いてあるのか見せて頂戴な[#「何と書いてあるのか見せて頂戴な」に傍点]と言った。これにはファラデー閉口した。結局それは見せないで、別に歌を作って、前の考は誤りなることを発見した[#「誤りなることを発見した」に傍点]からと言ってやった。これはその年(一八一九年)の十月十一日のことである。この頃からファラデーは、すっかりサラにまいってしまった。
時に、手紙をやったが、それらのうちには中々名文のがある。翌年七月五日附けの一部を紹介すると、
「私が私の心を知っている位か、否な、それ以上にも、貴女は私の心を御存知でしょう。私が前に誤れる考を持っておったことも、今の考も、私の弱点も、私の自惚《うぬぼれ》も、つまり私のすべての心を貴女は御存知でしょう。貴女は私を誤れる道から正しい方へと導いて下さった。その位の御方であるから、誰なりと[#「誰なりと」に傍点]誤れる道に踏み入れる者のありもせば[#「ありもせば」に傍点]導き出さるる様にと御骨折りを[#「御骨折りを」に傍点]御願い致します。」
「幾度も私の思っている事を申し上げようと思いましたが、中々に出来ません。しかし自分の為めに、貴女の愛情をも曲げて下さいと願うほどの我儘《わがまま》者でない様にと心がけてはおります。貴女を御喜ばせする様にと私が一生懸命になった方がよいのか、それとも御近寄りせぬでいた方がよいのか、いずれなりと御気に召した様に致しましょう。ただの友人より以上の者に[#「ただの友人より以上の者に」に傍点]私がなりたいと希《こ》い願ったからとて、友人以下の者にしてしまいて、罰されぬようにと祈りております。もし現在以上に貴女が私に御許し下さることが出来ないとしても現在私に与えていて下さるだけは[#「だけは」に傍点]、せめてそのままにしておいて下さい。しかし私に御許し下さるよう願います。」
二五 結婚
サラはこの手紙を父に見せると、父は一笑に附して、科学者が、馬鹿な事を書いたものだといった。ファラデーは段々と熱心になる。サラは返事に困って躊躇し、※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、65−6]のライド夫人とラムスゲートの海岸へ旅行に行ってしまった。ファラデーは、もうジッとしてはいられない。追いかけて行って、一緒にドーバーあたりで一日を送り、愉快に満ちた顔して帰って来た。ついに一八二一年六月十二日に結婚した[#「ついに一八二一年六月十二日に結婚した」に傍点]。
式の当日は賑やかなことや、馬鹿騒ぎはせぬ様にし、またこの日が平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった[#「平日と特に区別の無い様にしようとの希望であった」に傍点]。しかし実際においては、この日こそファラデーに取って、生涯忘るべからざる日となったので、その事はすぐ後に述べることとする。
結婚のすぐ前に、ファラデーは王立協会の管理人[#「管理人」に傍点]ということになり、結局細君を王立協会の内に連れて来て、そこに住んだ[#「そこに住んだ」に傍点]。しかし舅《しゅうと》のバーナードの死ぬまでは、毎土曜日には必ずその家に行って、日曜には一緒に教会に行き、夕方また王立協会へ帰って来た。
ファラデーの真身の父は、ファラデーがリボーの所に奉公している中に死んだが、母はファラデーと別居していて、息子の仕送りで暮し、時々協会にたずね来ては、息子の名声の昇り行くのを喜んでおった。
ファラデーは結婚してから一ヶ月ばかりして、罪の懺悔をなし、信仰の表白をして、サンデマン教会にはいった。しかしこの際に、細君のサラには全く相談しなかった。もっとも細君は既に教会にはいってはおった。ある人が何故に相談しなかったときいたら、それは自分と神との間のみ[#「自分と神との間のみ」に傍点]の事だから、と答えた。
二六 幸福なる家《ホーム》
ファラデーには子供が無かった。しかし、この結婚は非常に幸福[#「非常に幸福」に傍点]であった。年の経つに従って、夫妻の愛情はますます濃《こま》やかになるばかりで[#「ばかりで」は底本では「ばかりて」]、英国科学奨励会(British Association of the Advancement of Science)の年会があって、ファラデーがバーミンガムに旅行しておった時も、夫人に送った手紙に、
「結局、家《ホーム》の静かな悦楽に比ぶべきものは外にない。ここでさえも食卓を離れる時は、おん身と一緒に静かにおったらばと切に思い出す。こうして世の中を走り廻るにつけて、私はおん身と共に暮すことの幸福を、いよいよ深く感ずるばかりである。」
ファラデーは諸方からもらった名誉の書類[#「名誉の書類」に傍点]を非常に大切に保存して置いた。今でも王立協会にそのままある。各大学や、各学会からよこした学位記や賞状の中に[#「学位記や賞状の中に」に傍点]、一つの折紙[#「一つの折紙」に傍点]が挟んである。
「一八四七年一月二十五日。」
[#ここから1字下げ]
これらの記録の間に、尊敬と幸福との源として、他のものよりも一層すぐれたものを挟んで置く。余等は一八二一年六月十二日に結婚した。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]ファラデー」
またチンダルの書いたファラデー伝には、「これにも優りて、雄々しく、清らかなる、不変の愛情他にあるべきや。宛も燃ゆるダイヤモンドのその如く[#「宛も燃ゆるダイヤモンドのその如く」に傍点]、四十六年の長きに亘りて[#「四十六年の長きに亘りて」に傍点]、煙なき[#「煙なき」に傍点]、純白の光を放ちつつ燃えぬ[#「純白の光を放ちつつ燃えぬ」に傍点]」
と、美しい筆致で描かれてある。
ファラデーは結婚後、家庭が極めて幸福だったので、仕事にますます精が出るばかりであった。前記の市科学会はもはやつぶれたので、友人のニコルの家へ集って、科学の雑誌を読んだりした。
一八二三年には、アセニウム倶楽部ができた。今のパル・マルにある立派な建物はまだなくて、ウォータールー・プレースの私人の家に、学者や文学者が集ったので、ファラデーはその名誉秘書になった。しかし、自分の気風に向かない仕事だというので、翌年辞した。
二七 ローヤル・ソサイテーの会員
デビーはファラデーの書いたものの文法上の誤を正したり、文章のおかしい所をなおしたりしてくれた。一八二二年に塩素を液化した[#「塩素を液化した」に傍点]ときのファラデーの論文も、デビーはなおした上に附録をつけ、自分が実験の方法を話した[#「実験の方法を話した」に傍点]ことも書き加えた。しかし、ファラデーの要求すべき領域内に立ち入るようなことはなかった。ただ事情を知らない人には、こうした事もとかく誤解を生じ易い[#「誤解を生じ易い」に傍点]。
すでに二、三年前に電磁気廻転を発見した時にも誤解が起った[#「誤解が起った」に傍点]。ファラデーが発見した以前、ウォーラストンがやはり電磁気廻転のことを考えておった。しかし、ファラデーのとは全く別のものであった。それにも関わらずウォーラストンの友人のワルブルトン等は同じものだと
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