えしている。エム・ピクテーの所の三角稜《プリズム》を借りて、そのスペクトルを作った。」
 それから、終りには、
「近頃は漁猟[#「漁猟」に傍点]と銃猟[#「銃猟」に傍点]とをし、ゼネバの原にてたくさんの鶉《うずら》をとり、ローン河にては鱒《ます》を漁った。」
などとある。

     一六 デビー夫人

 かくファラデーが、辛棒出来かねる様にいうているのは、そもそも何の事件であるか。これにはデビイの事をちょっと述べて置く。
 デビーが一八〇一年に始めてロンドンに出て来たときは、田舎生れの蛮カラだったが、都会の風に吹かれて来ると、大のハイカラになりすまし、時代の崇拝者となり、美人の評判高かった金持の後家と結婚[#「結婚」に傍点]し、従男爵に納まってサー(Sir)すなわち準男爵[#「準男爵」に傍点]を名前に附けるようになり、上流社会の人々と盛んに交際した。この度の旅行にもこの夫人が同行した[#「夫人が同行した」に傍点]が、夫人は平素デビーの書記兼助手たるファラデーを眼下に見下しておったらしい。
 さて上に述べた手紙に対して、アボットは何が不快であるかと訊《き》いてよこした。ファラデーはこの手紙を受取って、ローマで十二枚にわたる長文の返事[#「十二枚にわたる長文の返事」に傍点]を出した。これは一月の事だが、その後二月二十三日にも手紙を出した。この時には事件がやや平穏[#「平穏」に傍点]になっていた時なので、
「サー・デビーが英国を出立する前、下僕が一緒に行くことを断った。時がないので、代りを[#「代りを」に傍点]探すことも出来なくて、サー・デビーは非常に困りぬいた。そこで、余に、パリに着くまででよいから、非常に必要の事だけ代りをしてはくれまいか、パリに行けば下僕を雇うから、と言われた。余は多少不平ではあったが、とにかく承知をした。しかしパリに来て見ても、下僕は見当らない[#「下僕は見当らない」に傍点]。第一、英国人がいない。また丁度良いフランス人があっても、その人は余に英語を話せない。リオンに行ったが無い。モンペリエに行っても無い。ゼネバでも、フローレンスでも、ローマでも、やはりない。とうとうイタリア旅行中なかった[#「なかった」に傍点]。しまいには、雇おうともしなかったらしい[#「雇おうともしなかったらしい」に傍点]。つまり英国を出立した時と全く同一の状態[#「同一の状態」に傍点]のままなのである。それゆえ初めから余の同意しない事を、余のなすべき事としてしまった。これは余がなすことを望まない事であって、サー・デビーと一緒に旅行している以上はなさないわけには行かないことなのだ。しかも実際はというと、かかる用は少ない[#「かかる用は少ない」に傍点]。それにサー・デビーは昔から自分の事は自分でする習慣がついているので、僕のなすべき用はほとんどない。また余がそれをするのを好まぬことも、余がなすべき務と思っておらぬことも、知りぬいているから、不快と思うような事は余にさせない様に気をつけてくれる[#「させない様に気をつけてくれる」に傍点]。しかしデビー夫人の方は、そういう人ではない、自分の権威を振りまわすことを好み、余を圧服せんとするので、時々余と争になること[#「争になること」に傍点]がある。」
「しかしサー・デビーは、その土地で女中を雇うことをつとめ、これが夫人の御用[#「夫人の御用」に傍点]をする様になったので、余はいくぶんか不快でなくなった。」
と書いてある。
 かような風習は欧洲と日本とでは大いに違うているので、少し註解[#「註解」に傍点]を附して置く。欧洲では、下女を雇っても、初めから定めた仕事の外は、主人も命じないし、命じてもしない。夜の八時には用をしまうことになっていると、たとい客が来ておろうと、そんな事にはかまわない。八時になれば、さっさと用をやめて、自分の室に帰るなり、私用で外出するなりする。特別の場合で、下女が承知すれば用をさせるが、そのときは特別の手当をやらねばならぬ。デビーはファラデーに取っては恩人[#「恩人」に傍点]であるから、日本流にすれば、少々は嫌やな事も[#「少々は嫌やな事も」に傍点]なしてよさそうに思われるが、そうは行かない。この点はファラデーのいう所に理がある。しかし他方で、ファラデーは権力に抑えられることを非常に嫌った人で、また決して穏かな怒りぽくない人では無かったのである[#「穏かな怒りぽくない人では無かったのである」に傍点]。

     一七 デ・ラ・リーブ

 そのうちに、ファラデーに同情する人も出来て来た。一八一四年七月から九月中旬までゼネバに滞在していたが、デ・ラ・リーブはデビーの名声に眩《くら》まさるることなく、ファラデーの真価[#「真価」に傍点]を認め出した。その動機は、デビーが狩猟を好むので、リーブも一緒に行ったが、リーブは自分の銃は自分で装填し、デビーの鉄砲にはファラデーが装填する。こんな事で、リーブとファラデーとは談話する機会を得、リーブはファラデーが下僕ではなくて、実験の助手[#「実験の助手」に傍点]であることも知ったし、またこの助手が中々偉い人間であることも知った。それでほとんどデビーに次ぐの尊敬を払いはじめた。ある日、リーブの所で正餐をデビー夫妻に饗《もてな》したことがあった。その時ファラデーをも陪席[#「陪席」に傍点]させると言い出した。しかしデビーは下僕の仕事もしているのだからというて断った。しかしリーブは再三申し出して、とにかく別室でファラデーを饗応《きょうおう》することにした。
 ファラデーはリーブを徳としたのか、その交際はリーブの子の代までも続き、実に五十年の長[#「五十年の長」に傍点]きに亘《わた》った。

     一八 旅行のつづき

 再び旅行の事に戻ろう。デビーはゼネバを立って、北方ローザン、ベルン、ツーリヒに出で、バーデンを過ぎてミュンヘンに行き、ドイツの都会を巡遊して、チロールを過ぎり、南下してピエトラ・マラの近くで、土地より騰《のぼ》る燃ゆるガスを集め[#「ガスを集め」に傍点]、パヅアに一日、ヴェニスに三日を費し、ボログナを通ってフローレンスに行き、ここに止まって前に集めたガスを分析し[#「分析し」に傍点]、十一月の初めには再びローマに戻って来た。
 ファラデーは一・二度母親にも妹にも手紙[#「手紙」に傍点]を送り、また王立協会の前途を案じてはアボットに手紙を送り、「もし事変の起るようなことでもあったら、そこに置いてある自分の書籍を忘れずに取り出してくれ。これらの書籍は旧に倍しても珍重するから」と書いてやった。また自分の属する教会の長老には寺院のお祭りや謝肉祭の光景、コロシウムの廃跡等をくわしく書きおくり、若い友人にはフランス語の学び方を述べた手紙を送ったりした。
 この頃のファラデーの日記を見ると、謝肉祭[#「謝肉祭」に傍点]の事がたくさんかいてある。その馬鹿騒ぎが非常に気に入ったらしく、昼はコルソにて競馬を見、夕には仮面舞踏会に四回までも出かけ、しかも最後の時には、女の寝巻に鳥打帽[#「女の寝巻に鳥打帽」に傍点]という扮装で押し出した。
 サー・デビーは、それからギリシャ、トルコの方面までも旅行したい希望であったが、見合わすこととなり、一八一五年二月末、ネープルに赴いてベスビアス山に登り、前年の時よりも噴火の一層活動せるを見て大いに喜んだ。
 このとき何故か、急に帰途に就くこととなり、三月二十一日ネープルを出立、二十四日ローマに着、チロールからドイツに入り、スツットガルト、ハイデルベルヒ、ケルンを経て、四月十六日にはベルギーのブラッセルにつき、オステンドから海を渡ってヂールに帰り、同じく二十三日には既に[#「既に」に傍点]ロンドンに到着した。
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      中年時代

     一九 帰国後のファラデー

 ファラデーは再び王立協会に帰って、以前と同じ仕事をやりだしたが、ファラデーその人はというと旧阿蒙《きゅうあもう》ではなかった。ファラデーにとっての大学は欧洲大陸であって、ファラデーの先生は主人のデビーや、デビーの面会した諸学者であった。
 この頃は英国と大陸との交通がまだ少ない時代であったから、外国の学者に知り合いの出来たことは非常に都合が好く、自分の研究[#「自分の研究」に傍点]を大陸に知らせるにも非常な便宜を得た。ことにフランスではアカデミー(Academie)の出来たてで、その会員の人々にも心易くなった。
 一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド[#「一年百ポンド」に傍点](一千円)となった。
 今日に残っている実験室の手帳[#「手帳」に傍点]を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し[#「流し」に傍点]書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授[#「名誉教授」に傍点]となって研究だけは続けておった。

     二〇 デビーの手伝い

 この頃デビーは※[#「火+稲のつくり」、第4水準2−79−87]《ほのお》の研究をしていた。これは鉱山で、よくガスが爆発して、礦夫の死ぬのを救わんため、安全灯[#「安全灯」に傍点]を作ろうという計画なのである。ファラデーもこれを手伝った。デビーの安全灯の論文の初めにも、「ファラデー君の助力を非常に受けた」と書いてある。
 デビーは金網を用いて火※[#「火+稲のつくり」、第4水準2−79−87]を包み安全灯を作ったが、一八一六年には礦山で実地に用いられるようになった。しかしこの安全灯とても、絶対に[#「絶対に」に傍点]安全という訳には行かない。議会の委員が安全灯を試験した際にも、ファラデーはこの由を明言した。ファラデーは先生のデビーにはどこまでも忠実であったが、しかし不正を言うことは出来ない人であった。
 ファラデーはデビーの実験を助ける外に、デビーの書いた物をも清書[#「清書」に傍点]した。デビーは乱雑に字を書くし、順序等には少しも構わないし、原稿も片っ端しから破ってしまう。それでファラデーは強《し》いて頼んでその原稿を残して置いてもらい、あとで二冊の本に製本した。今日に保存[#「保存」に傍点]されている。

     二一 自分の研究

 これまでのファラデーは智識を吸収する一方であったが、この頃からボツボツと研究を発表[#「発表」に傍点]し出した。初めて講演[#「講演」に傍点]をしたのは一八一六年の一月十七日で、市《シティ》科学会でやり、また初めて自分の研究した論文[#「論文」に傍点]を出したのもこの年で、「科学四季雑誌」(Quarterly Journal of Science)に発表した。講演は物質に関するもので、論文は生石灰の分析に就いてである。いずれもそう価値のあるものではない。
 しかし、これは特筆[#「特筆」に傍点]に値いするものというて宜かろう。ささやかなる小川もやがては洋々たる大河の源であると思えば、旅行者の一顧に値いするのと同じく、ファラデーは講演者として古今に比いなき名人と謂《い》われ、また研究者としては幾世紀の科学者中ことに群を抜いた大発見をなした偉人と称《たた》えられるようになったが、そのそもそもの初めをたずねれば[#「初めをたずねれば」に傍点]、実にこの講演と研究[#「講演と研究」に傍点]とを発端とするからである。
 かくファラデー自身が研究を始めることになって見ると、デビーの為めに手伝いする[#「手伝いする」に傍点]部分と、自分自身のために研究する[#「自身のために研究する」に傍点]部分との区別がつきにくくなり、これがため後には行き違いを生じたり、妬みを受けたりした。しかし初めの間はまだ左様なこともなく、一八一八年頃デビーが再び大陸に旅行しておった留守にも、ファラデーは実験室で種々の研究をし、ウエストの新金属というたシリウムを分析して、鉄、ニ
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