る[#「死んだ後である」に傍点]。それ故、王立協会に実験室のあったということは[#「王立協会に実験室のあったということは」に傍点]、非常な長所と言って宜しい[#「非常な長所と言って宜しい」に傍点]。
しかし時代が移り変って、現今では欧洲の大学には物理や化学の立派な実験室が出来た。その割合に王立協会のは立派にならない[#「その割合に王立協会のは立派にならない」に傍点]。今日でも講義をする場所としては有名であるが、それに関わらず、研究の余り出ないのはこのためである。
一〇 王立協会の内部
ロンドンの中央より少々西に寄ったピカデリーという賑やかな通から北へ曲りて、アルベマール町へはいると、普通の家と軒を並べた、大きなギリシャ式の建物がある。戸を開けて這入《はい》ると、玄関の正面には大きな石の廻り階段があって、その左右に室がある。室には、棚に書物あり、机の上には雑誌ありという風で、読書室になっている。また器械室と小さな標本室もある。さて正面の大きな階段を登ると、左に準備室があって、その先きに大きな講堂[#「大きな講堂」に傍点]がある。講堂には大きい馬蹄形の机があって、その後方に暖炉や黒板があり、壁には図面などが掛かるようになっている。机の前には半円形になった聴講者の腰掛がならべてあり、一列毎に段々と高くなり、その上には大向うの桟敷に相当する席もあり、全体で七百人位は入れる。
この室はファラデーの時代には非常に大きい講堂として有名[#「非常に大きい講堂として有名」に傍点]なものであった。しかし今日では、ドイツ辺の大学の物理講堂は、無論これ位の大きさはあるので、昔の評判を耳にしていて、今日実際を見ると、かえって貧弱の感がす[#「貧弱の感がす」に傍点]る。
また階下には小さな化学実験室がある。これは初めに小講堂であった室で、その先きに、昔からの実験室がある[#「昔からの実験室がある」に傍点]。炉や砂浴や机などがあり、棚には一面にいろいろの道具や器械が載せてある。この実験室は今でも明るくはないが、昔はもっと暗かったそうである。この実験室こそファラデーの大発見をした室である[#「この実験室こそファラデーの大発見をした室である」に傍点]。その先きに暗い物置があるが、これから狭い階段を登ると、場長の住む室の方へとつづいている。
以上が大体ファラデー時代の王立協会の様子である。この後に多少変ったり、広くもなった。ファラデーの後任のチンダルが、一八七二年に全部を改築し、一八九六年にはモンドが「デビー―ファラデー実験室」というのを南に建て増しをした。その後ヂュワーが低温度の実験をしたとき重い機械を入れたため、多少の模様変えをした。しかし今日でも昔のおもかげは残っている。[#「残っている。」は底本では「残っている 」]また大通りに十四本の柱があるが、これはファラデー時代に附けたもので、この間の入口を這入《はい》ると、今日では玄関にファラデーの立像がある[#「立像がある」に傍点]。
一一 王立協会の講義
王立協会でやっている講義は三種類で、これはファラデーの時代からずっと引続いて同じである。
クリスマス[#「クリスマス」に傍点]の頃に子供のために開くやさしい講義が六回位ある。また平常一週三回位、午後三時[#「午後三時」に傍点]からの講義があって、これは同じ題目で二・三回で完了することが多い。それから金曜の夜[#「金曜の夜」に傍点]の九時からのがある。これが一番有名なので、良い研究の結果が出ると、それを通俗に砕いて話すのである。現今ではここで話すことを以て名誉として、講師には別に謝礼は出さないことにしてある。それでも、講師は半年も一年も前から実験の準備にかかる。もちろん講師自身が全部をするのではない、助手が手伝いをするのではあるが。
これらの講義は、著者も滞英中、聴きに行ったことがある。聴衆は多くは半白の老人で、立派な紳士が来る。学者もあり、実業家もある。夫婦連れのもあるが、中には老婦人だけ来るのもある。自働車で来るのが多いという有様で、上流の紳士に科学の興味があるのは喜ばしいことではあるが、昔のファラデーを想い起すというような小僧や書生の来ておらないのには[#「昔のファラデーを想い起すというような小僧や書生の来ておらないのには」に傍点]、何となく失望を禁じ得ない[#「何となく失望を禁じ得ない」に傍点]。会員は多いようである。会員外の人は聴講料を出す。かなり高い。二回で半ギニー(十円五十銭)位であったと思う。一回分が丁度芝居の土間位の金高である。
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大陸旅行
一二 出立
ファラデーが助手となって、六個月ばかり経つと、ファラデーの一身上に新生面の開ける事件が起った。それはデビーが欧洲大陸を旅行するという事件で、デビーはナポレオン皇帝から特別の旅券をもらい、夫人同伴で旅行する。そしてファラデーを書記として伴うことになった。
一八一三年九月に旅行の話が定まり、十月十三日ロンドンを出発し、同一五年三月二十三日に帰るまで、約一年半の間、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツを巡った。
ファラデーはこのとき二十二才の青年で、最も印象をうけ易い年頃であったから、この旅行より得たものは実に莫大で、単に外国を観たというのみでなく、欧洲の学者を見たり、その話を聞いたりした。丁度普通の人の大学教育[#「大学教育」に傍点]に相当するのが、ファラデーではこの大陸の旅行[#「大陸の旅行」に傍点]である。
一三 フランス
この旅行についてファラデーは委細の記事を残した。これを見ると、デビーの友人の事から、旅行中の研究もわかり、これに処々《ところどころ》の風景や見聞録を混じているので、非常に面白い。
ファラデーはロンドンに育ったから、市外の青野を見ていたばかりで、小山を山岳と思い、小石を岩石と思っていたという次第である。それゆえロンドンを立ってデボンシャイアに来たばかりで、もう花崗石だの、石灰石だのという、ロンドンあたりでは見られぬものが地上に顕《あら》われて来たので、これが地盤の下にある岩石[#「岩石」に傍点]かと、その喜びと驚きとは非常であった。また海[#「海」に傍点]を見るのも初めてであり、ことにフランスの海岸に近づくと、熱心に南方を眺め、岸に着いては労働者を見て、文明の劣れる国だと驚いた。
それから税関[#「税関」に傍点]の騒擾《そうじょう》に吃驚《きっきょう》したり、馬車の御者[#「御者」に傍点]が膝の上にも達する長い靴をはき、鞭をとり、革嚢《かくのう》を持っているのを不思議がったり、初めてミミズ[#「ミミズ」に傍点]を見たり、ノルマンヂイの痩せた豚[#「豚」に傍点]で驚いたりした。
パリではルーブルを見て、その寳物[#「寳物」に傍点]を評して、これを獲たことはフランスの盗なることを示すに過ぎずというたり、旅券の事で警察に行ったら、ファラデーは円い頤《あご》で、鳶色の髪、大きい口で、大きい鼻という人相書[#「人相書」に傍点]をされた。寺院に行っては、芝居風で真面目な感じがしないといい、石炭でなくて木の炭を料理に使うことや、セイヌ河岸にいる洗濯女から、室内の飾りつけ、書物の印刷と種々の事が珍らしかった。
学問の方面の事を書いて見ると、デビーの所へアンペアやクレメントが来て、クルトアの発見したXという新しい物[#「新しい物」に傍点]を示し、これを熱すると美しい菫《すみれ》色の蒸気が立ちのぼった。それからアンペアがこの見本をよこしたので、デビーはファラデーを相手に実験[#「実験」に傍点]をはじめた。この物が何であるかということをフランスの学者は秘密にしておったが、後には海の草から取る[#「海の草から取る」に傍点]という事だけ漏[#「漏」に傍点]らした。これはヨウ素なのだ。
パリを立つ前に、ファラデーはナポレオンをちょっと見た。馬車に乗って、黄鼬《テン》の大きな長衣を着こみ、頭には天鵞絨《ビロード》の帽子を戴き、鳥の羽がさがりて顔もほとんど見えないばかりであった。この外にフンボルトにも逢い、またゲー・ルーサックが二百人の学生に講義をしてる所をも見た。
一四 イタリア入り
十二月二十九日にパリを立ち、郊外のフォンテン・ブローを過ぐる際、折りしも森林は一面に結晶した白い氷で被われて、非常な美観[#「美観」に傍点]を呈していた。リオン、モンペリエ、ニースを過ぎて、地中海の岸にヨウ素を探し[#「ヨウ素を探し」に傍点]、翌一八一四年の正月終りには、六千尺のコール・デ・タンデの山雪を越えて、イタリアに入った。チューリンにて謝肉祭に逢い、ゲノアにては電気魚[#「電気魚」に傍点]の実験をなし、これの起す電気にて水の分解されるや否やをしらべた。
ゲノアから小舟にてレリシという所に渡ったが、危くも難破せんとした。それよりフローレンスに向った。フローレンスでは、アカデミア・デル・シメント(Academia del Cimento)に行って、図書館、庭園、博物館を見物した。ここにはガリレオの作った望遠鏡[#「望遠鏡」に傍点]があり、筒は紙と木とで、両端にレンズがはめてあるだけだが、ガリレオはこんな粗末な物で、木星の衛星を発見したのだ。またいろいろの磁石を集めたのがあったが、中には百五十斤の重さの天然磁石[#「天然磁石」に傍点]もあった。タスカニイの大公爵の所有にかかる大きな「焼きガラス[#「焼きガラス」に傍点]」も見た。つまり大きなレンズに外ならぬ。これにて太陽の光を集め、酸素でダイヤモンドを焼き、ダイヤモンド[#「ダイヤモンド」に傍点]は純粋の炭素より成ることを確めた。
四月初めにはローマに向い、そこからファラデーは旅行の事どもを書いた長い手紙[#「手紙」に傍点]を母親に送り、また元の主人のリボーにも手紙を出した。そのうちには、政治上のごたごたの事や、デビーの名声は到るところ素晴らしいため、自由に旅行できることも書いてある。またパリが同盟軍に占領された由も書き加えてある。
ローマでは、モリシニが鋼鉄の針に太陽の光をあてて磁石にするという、あやしい実験[#「あやしい実験」に傍点]を見、月夜にコロシウムの廃趾を越え、朝早くカンパニアの原を過ぎ、ネープルに向った。匪徒《ひと》の恐れありというので、護衛兵[#「護衛兵」に傍点]をも附した。
五月半ばには再度ベスビアスに登ったが、二度目の時は丁度噴火のあった際であり、それに噴火口に着いたのが夕方の七時半だったので、一段の壮観[#「壮観」に傍点]をほしいままにした。
六月にはテルニに行って、大瀑布の霧にうつれる虹を見たが、このとき虹の円形の全体[#「全体」に傍点]を見ることができた。アペナイン山を過ぎて、ミランに着いたのは七月十七日。有名なボルタはこの時もう老人であったが、それでも頗る壮健で、遠来の珍客たるデビーに敬意を表せんとて、伯爵の大礼服[#「伯爵の大礼服」に傍点]をつけて訪ねて来て、デビーの略服にかえって驚かされた。
コモ湖を過ぎてゼネバに来り、しばらくここに滞在した。
一五 スイス
この間に、友人アボットに手紙を出して、フランス語とイタリア語との比較や、パリおよびローマの文明の傾向を論じたりしたが、一方では王立協会の前途について心配し、なおその一節には、
「旅行から受くる利益と愉快とを貴ぶことはもちろんである。しかし本国に帰ろう[#「帰ろう」に傍点]と決心した事が度々ある。結局再び考えなおして、そのままにして置いた。」
「科学上の智識を得るには屈竟《くっきょう》の機会であるから、サー・デビーと共に旅行を続けようと思う。けれども、他方ではこの利益を受けんがために、多くの犠牲[#「多くの犠牲」に傍点]を払わねばならぬのは辛い。この犠牲たるや、下賤の者は左程と思わぬであろうが、自分は平然としていられない。」
そうかと思うと、
「サー・デビーはヨウ素の実験[#「実験」に傍点]を繰りか
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