鮮のものおよび乾いたもの)、血。いずれもみな反磁性[#「反磁性」に傍点]を示し、ことにビスマスは反磁性を強く示した。
これらの研究の結果は一八四五年十二月[#「一八四五年十二月」に傍点]に発表し、例の「電気の実験研究」第二十篇[#「第二十篇」に傍点]におさめてある。同第二十一篇[#「第二十一篇」に傍点]はこの研究の続篇で、翌年一月[#「翌年一月」に傍点]に発表した。これは鉄の化合物に対する研究で、固体でも液体でも、塩基の部分に鉄をもつ物はみな磁性を示し、絵具のプルシァン・ブリューや緑色のガラス瓶に至るまでも磁性を示すことが出ている。
一九 光の電磁気説
一八四六年に王立協会でファラデーのやった金曜の夜の[#「金曜の夜の」に傍点]講演に、「光、熱等、輻射のエネルギーとして空間を伝わる振動は、エーテルの振動ではなくて、物質間にある指力線の振動である[#「指力線の振動である」に傍点]」という句があった。この考は友人フィリップスに送った手紙[#「手紙」に傍点]にくわしく書いてあり、またこの手紙を、「光の振動についての考察」という題で、同年五月[#「同年五月」に傍点]のフィロソフィカル・マガジンにも出した。
これが、ファラデーの書いたものの中で、最も想像的なものとして著名なので[#「最も想像的なものとして著名なので」に傍点]、少しも実験の事は書いてない[#「少しも実験の事は書いてない」に傍点]。恐らくこの時こそ[#「恐らくこの時こそ」に傍点]、理論家としてファラデーが最高潮に達した時であろう[#「理論家としてファラデーが最高潮に達した時であろう」に傍点]。
上の物質間にある指力線の振動というのが、今日の言葉でいうと、電子の間にある電磁気指力線の振動[#「振動」に傍点]の事で、これが光、熱等の輻射に外ならずというのである。この考こそ後になって、マックスウェルが理論的に完成し、ヘルツが実験上に確かめた光の電磁気説である。マックスウェルの書いた物の中にも、
「ファラデーによりて提出された光の電磁気説は、余がこの論文に精《くわ》しく述ぶるものと、実質において同じである[#「実質において同じである」に傍点]。ただ一八四六年の頃には、電磁波の伝わる速度を計算する材料の存在しなかった事が、今日との相違である」と。
二〇 その他の研究
この一八四六年の後半より翌年にかけて、ファラデーは研究を休んだ。その後一八四八年の十二月[#「一八四八年の十二月」に傍点]に至りて発表したのが、「電気の実験研究」の第二十二篇[#「第二十二篇」に傍点]になっている、磁場におけるビスマスの性質を研究したものである。ビスマスの結晶を一様なる強さの磁場に吊すと、必ず一定の方向を取るので、(一様な強さの磁場に吊すのは、もともとビスマスに強い反磁性があるゆえ、磁場の強い所から弱い所へと動く性質がある。これの顕《あら》われ無い様にする)ためである。これは、結晶体の構造に方向性[#「構造に方向性」に傍点]があることを示すので、ビスマスのみならず、砒素、アンチモニーの結晶にも、同様の性質がある。なお研究の続きを一八五〇年三月[#「一八五〇年三月」に傍点]に発表した。(「電気の実験研究」第二十三篇[#「第二十三篇」に傍点])
ファラデーは以前から、重力と電気との[#「重力と電気との」に傍点]間に関係あるべきを確信しておったが、その実験をしても、少しも結果を得なかった。その得ないままを、同年十一月[#「同年十一月」に傍点]に発表した(同上、第二十四篇[#「第二十四篇」に傍点])。また同時に、酸素、水素等の磁性[#「磁性」に傍点]の研究を発表し、酸素に強い磁性あることを記した(同上、第二十五篇[#「第二十五篇」に傍点])。なお磁気性に対する伝導の力すなわち誘磁率[#「誘磁率」に傍点]の研究と空気の磁性[#「空気の磁性」に傍点]の研究も発表した(同上、第二十六篇[#「第二十六篇」に傍点]および[#「第二十六篇[#「第二十六篇」に傍点]および」は底本では「第二十六篇およ[#「二十六篇およ」に傍点]び」]第二十七篇[#「第二十七篇」に傍点])[#「第二十七篇[#「第二十七篇」に傍点])」は底本では「第二十七篇)[#「二十七篇)」に傍点]」]。ただし、空気の磁性の研究は学者間に余り賛成を得なかった。
二一 再び感応電流に就いて
翌一八五一年[#「一八五一年」に傍点]には七月より十二月[#「七月より十二月」に傍点]の間、再び電磁気感応の研究をして、定量的の定律[#「定量的の定律」に傍点]を発見した。すなわち、一様の強さの磁場で針金を一様に動すとき、感応によりて生ずる電流の強さは、その運動の速さに比例し[#「運動の速さに比例し」に傍点]、従いて針金の切りたる磁気指力線の数に比例[#「磁気指力線の数に比例」に傍点]すというのである。
次に、磁場の強さや大いさを測定するに、この定律を用いて、感応にて生ずる電流の強さの測定による方法を考えた。これらの研究は同年十二月[#「同年十二月」に傍点]並びに翌年[#「に翌年」に傍点][#「に翌年[#「に翌年」に傍点]」はママ]一月に発表し、「電気の実験研究」の第二十八[#「第二十八」に傍点]、二十九の両篇[#「二十九の両篇」に傍点]になっている。
この後一八五二年[#「一八五二年」に傍点]に王立協会にて講演せる「磁気指力線」に関するものおよびフィロソフィカル・トランサクションに出せる「磁気指力線の性質」に関するものは、いずれも有名な論文である。
「電気の実験研究」の第三巻[#「第三巻」に傍点]は上の第十九篇より二十九篇[#「第十九篇より二十九篇」に傍点]までに、今述べた両論文と、前に述べたフィリップスに与えた手紙、それからこの後二、三年間に書いた断篇を収めたもので、一八五五年[#「一八五五年」に傍点]の出版に係り、総頁五百八十八で、第一巻より通じての節の数は約三千四百[#「節の数は約三千四百」に傍点]である。
二二 晩年の研究
ファラデーの研究はこの後にも続き、一八五六年[#「一八五六年」に傍点]には水の結晶を研究し、復氷の現象[#「復氷の現象」に傍点]を発見した。すなわち氷の二片を圧すと固まりて一片となるというので、これは周囲の空気の温度が氷点より少し高くても出来ることである。
一八五九年[#「一八五九年」に傍点]に出版した「化学および物理学の実験研究」は、ファラデーの一番初めに発表した生石灰の分析の研究より一八五七年頃までの研究にて、化学並びに物理学に関した論文をまとめたもので、この外には狐狗狸《こくり》に関する論文もおさめてあり、巻末には「心の教育」という一八四四年五月六日[#「一八四四年五月六日」に傍点]、王立協会にてヴィクトリア女皇の良人アルバート親王、並びに一般の会員に対して講演したものも入れてある。総頁は四百九十六。
実験室手帳によれば、ファラデーの行った最後の実験は一八六二年三月十二日で[#「最後の実験は一八六二年三月十二日で」に傍点]、光に対する磁場の影響[#「光に対する磁場の影響」に傍点]に関するものである。分光器にてスペクトルをつくり、これが磁場にていかなる変化を受くるかを調べたるも、結果は見当らなかった。この後三十五年を経て、一八九七年オランダ人のゼーマンがこの変化を研究し、今日ゼーマン効果[#「ゼーマン効果」に傍点]といわれている大発見となった。
二三 研究の総覧
これよりファラデーの研究の全般[#「研究の全般」に傍点]を窺《うかが》おう。それにはチンダルの書いたものがあるから、そのままを紹介する。ただファラデーの死後間もなく(今から言えば五十年前に)書かれたものだから、多少不完全な[#「不完全な」に傍点]点もあるようである。
「アルプス山の絶頂に登りて、諸山岳の重畳するを見渡せば、山はおのずから幾多の群をなし、各々の群にはそれぞれ優れた山峯あって、やや低き諸峰に囲まるるを見る。非常なる高さに聳ゆるの力あるものは、必ずや他の崇高なるものを伴う[#「伴う」に傍点]。ファラデーの発見もまたそのごとく、優秀なる発見は孤立せずして、数多の発見の群集せる中の最高点[#「最高点」に傍点]を形成せるを見る。
「すなわちファラデーの電磁気感応の大発見[#「電磁気感応の大発見」に傍点]を囲んで群集せる発見には、電流の自己感応、反磁性体の方向性、磁気指力線とその性質並びに配布、感応電流による磁場の測定、磁場にて誘導さるる現象。これらは題目において千差万別なるも、いずれも電磁気感応の範囲に属するものである。ファラデーの発見の第二の群は[#「第二の群は」に傍点]、電流の化学作用に関するもので、その最高点を占むるは、電気分解の定律[#「電気分解の定律」に傍点]なるべく、これを囲んで群集せるものは、電気化学的伝導、静電気並びに電池による電気分解、金属の接触による起電力説と電池の原因に関する説の欠点、および電池の化学説である。第三群[#「第三群」に傍点]は光の磁気[#「光の磁気」に傍点]に対する影響で、こは正にアルプス山脈のワイスホルン峰に比すべきものか。すなわち高く美しくしかも孤峰として聳ゆるもの。第四群[#「第四群」に傍点]に属するのは反磁性[#「反磁性」に傍点]の発見で、総ての物質の磁性を有することを中心として、焔《ほのお》並びにガス体の磁性、磁性と結晶体との関係、空中磁気(ただし一日並びに一年間の空中磁気の変化に関する説は完全とは言い難かるべきも)である。[#「である。」は底本では「である」]
「以上に列記したるは、ファラデーの発見中の最も著名なるもののみである。たといこれらの発見なしとするも、ファラデーの名声は後世に伝うるに足るべく、すなわちガス体の液化、摩擦電気、電気鰻の起す電気、水力による発電機、電磁気廻転、復氷、種々の化学上の発見、例えばベンジンの発見等がある。
「かつまたそれらの発見以外にも、些細の研究は数多く、なお講演者[#「講演者」に傍点]として非常に巧妙であったことも特筆するに足るだろう。
「これを綜合して考うれば、ファラデーは世界の生んだ最大の実験科学者なるべく、なお歳月の進むに従って、ファラデーの名声は減ずることなく、ますます高くなるばかりであろう。」と。
ファラデーの名声がますます高くなるだろうと書いたチンダルの先見は的中した。しかし、チンダルはファラデーの最大の発見を一つ見落しておった[#「最大の発見を一つ見落しておった」に傍点]。それは実験上での発見ではなくて、ファラデーが学説として提出したもので、時代より非常に進歩[#「非常に進歩」に傍点]しておったものである。もしチンダルにその学説の価値が充分に理解できたならば、チンダル自身がさらに大科学者として大名を残したに違いない。それは何か。
前にフィリップスに与えた手紙のところで述べた電気振動が光である[#「電気振動が光である」に傍点]という説である。マックスウェルの数理と、ヘルツの実験とによりて完成され、一方では理論物理学上の最も基本的な電磁気学に発展し、他方では無線電信、無線電話等、工業界の大発明へと導いた光の電磁気説[#「光の電磁気説」に傍点]がそれである。
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年表
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一七九一年 九月二十二日 ロンドン郊外ニューイングトン・ブットに生る。
一八〇四年 リボーの店に入る。
一八一二年 二月 サー・デビーの講演を聴く。
一八一三年 三月 一日 王立協会の助手となる。
同 十月 十三日 サー・デビー夫妻に従って欧洲大陸に出立す。
一八一四年 イタリアにあり。
一八一五年 四月二十三日 ロンドンに帰る。
一八一六年 一月 十七日 始めて講演す。
一八一六年 生石灰を研究し、その結果を発表す。
一八二一年 六月 十二日 結婚す。王立協会の管理
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