よりもっと効目《ききめ》があるように説教の出来る者は無数[#「無数」に傍点]にあるという評で、講演の時の熱心な活《い》きいきとした態度は全々無く、ただ信心深い真面目《まじめ》という一点張りで、説くことも新旧約聖書のあちらこちらから引きぬいたもの[#「引きぬいたもの」に傍点]で、よく聖書をあんなに覚えていたものだと、感心した人もある[#「感心した人もある」に傍点]。
 ファラデーは神がこの世界を支配することに関して、系統的に考えたことは無いらしい。ニュートンやカントはそれを考えたのであるが。ファラデーのやり方は、科学と宗教との間に判然と境界を立てて別物にして[#「別物にして」に傍点]しまい、科学において用うる批評や論難は、宗教に向って一切用いないという流儀であったらしい。ファラデーの信じた宗教では、聖書のみが神の教というので、それに何にも附加せず、またそれより何にも減じないというのであった。ファラデーは新旧約聖書の出版の時代とか、訳者とかについて、一つも誤りなしと信じ[#「一つも誤りなしと信じ」に傍点][#「、一つも誤りなしと信じ[#「一つも誤りなしと信じ」に傍点]」は底本では「、一つも
前へ 次へ
全194ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
愛知 敬一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング