して一生を終ったのだ。しかしこれが為め英国の学術上の名声を高めたことは幾許《いくばく》であったろうか。」
 もっともこの後といえども、海軍省や内務省等から学問上の事を問い合わせに来るようなことがあると、力の許す限りは返答をした。一八三六年からは、灯台と浮標との調査につきて科学上の顧問となり、年俸三百ポンド[#「年俸三百ポンド」に傍点]をもらった。

     三二 年金問題

 一八三五年の初めに、総理大臣サー・ロバート・ピールは皇室費からファラデーに年金[#「年金」に傍点]を贈ろうと思ったが、そのうちに辞職してしまい、メルボルン男が代って総理となった。三月にサー・ジェームス・サウスがアシュレー男に手紙を送って、サー・ロバート・ピールの手元へファラデーの伝を届けた。ファラデーの幼い時の事が書いてある所などは、中々振っている。「少し財政が楽になったので、妹を学校にやったが、それでも出来るだけ節倹する必要上、昼飯も絶対に入用でない限りは食べない[#「昼飯も絶対に入用でない限りは食べない」に傍点]ですました」とか、また「ファラデーの初めに作った[#「初めに作った」に傍点]電気機械」の事が書い
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