ンス、イタリア、ヘブライ、ペルシア、アラビア語を読んだ。ドイツのゲッチンゲンや、英国のキャンブリッジで医学を修めた。一八〇〇年には光の波動説[#「光の波動説」に傍点]を発表し、翌一八〇一年からルムフォード伯に招かれて王立協会に来たが、二年もしないでやめた。理由は、医学の方面の勉強が遅れるからというので、一八〇三年医学博士 M.B. になり、後またセント・ジョージ病院の医師となった。王立協会におった時期は短かかったが、その間にやった講義録や発表した論文は、いずれも有名[#「有名」に傍点]なものである。また後には、エジプトの象形文字[#「エジプトの象形文字」に傍点]の研究が有名である。天才というべき人で[#「天才というべき人で」に傍点]、一八二九年五月十日に死んだ。
[#改丁]

[#ここから5字下げ、ページの左右中央]
後編 研究
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]

      研究の三期

 ファラデーの研究は始終を通じて、実に四十四年の永き[#「四十四年の永き」に傍点]にわたる。すなわち一八一六年の生石灰の研究を振り出しに、同六〇年より六二年の頃に研究して結果の未定に終った磁気と
前へ 次へ
全194ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
愛知 敬一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング