に傍点]のときには既に才名一世に鳴りひびいて[#「才名一世に鳴りひびいて」に傍点]、ナイトに叙せられた。その後、間もなくアプリースという才色兼備の金持の寡婦と結婚した[#「寡婦と結婚した」に傍点]。そこで王立協会の教授をやめて、代りにブランドを入れ、自分は単に名誉教授となって、夫人およびファラデーをつれて、大陸に旅行し、帰ってからは、安全灯の発明があり、一八三〇年より七個年の間、ローヤル・ソサイテーの会長になった。しかし、健康が良くないので、再び大陸に旅行したが夫人は同行を承知しなかった。イタリアのローマで一度危篤に陥ったが、ゼネバまで帰ったとき、前に同僚であったヤングの死去の報を聞いたが、その夜自分も中風で死んだ。一八二九年五月二十九日である。享年五十一。
詩人カレッヂが評していうのに、「デビーは一流の化学者にならなくとも、一流の詩人に[#「一流の詩人に」に傍点]なったであろう」と。旅行中に詩も作ったし、「旅中の慰め」という散文もある。
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トーマス・ヤングは一七七三年七月十三日生れで、十四、五歳のときには、既にオランダ、ギリシャ、フラ
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