あったが、見合わすこととなり、一八一五年二月末、ネープルに赴いてベスビアス山に登り、前年の時よりも噴火の一層活動せるを見て大いに喜んだ。
このとき何故か、急に帰途に就くこととなり、三月二十一日ネープルを出立、二十四日ローマに着、チロールからドイツに入り、スツットガルト、ハイデルベルヒ、ケルンを経て、四月十六日にはベルギーのブラッセルにつき、オステンドから海を渡ってヂールに帰り、同じく二十三日には既に[#「既に」に傍点]ロンドンに到着した。
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中年時代
一九 帰国後のファラデー
ファラデーは再び王立協会に帰って、以前と同じ仕事をやりだしたが、ファラデーその人はというと旧阿蒙《きゅうあもう》ではなかった。ファラデーにとっての大学は欧洲大陸であって、ファラデーの先生は主人のデビーや、デビーの面会した諸学者であった。
この頃は英国と大陸との交通がまだ少ない時代であったから、外国の学者に知り合いの出来たことは非常に都合が好く、自分の研究[#「自分の研究」に傍点]を大陸に知らせるにも非常な便宜を得た。ことにフランスではアカデミー(Academie)の出来たてで、その会員の人々にも心易くなった。
一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド[#「一年百ポンド」に傍点](一千円)となった。
今日に残っている実験室の手帳[#「手帳」に傍点]を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し[#「流し」に傍点]書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授[#「名誉教授」に傍点]となって研究だけは続けておった。
二〇 デビーの手伝い
この頃デビーは※[#「火+稲のつくり」、第4水準2−79−87]《ほのお》の研究をしていた。これは鉱山で、よくガスが爆発して、礦夫の死ぬのを救わんため、安全灯[#「安全灯」に傍点]を作ろうという計画なのである。ファラデーもこれを手伝った。デビーの安全灯の論文の初めにも、「ファラデー君の助力を非常に受けた」と書いてある。
デビーは金網を用いて火※[#「火+稲のつくり」、第4水準2−79−87]を包み安全灯を作った
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