こともあるそうだ。この頃ファラデーが自分で作って実験を試みた電気機械は、その後サー・ジェームス・サウスの所有になって、王立協会に寄附され、今日も保存されてある。
 ファラデーはタタムの講義をきくにつれて、筆記を取り、後で立派に清書して、節を切り、実験や器械の図をも入れ、索引を附して四冊とし、主人のリボーに献ずる由を書き加えた。
 この筆記を始めとして、ファラデーが後になって聴いたデビーの講義の筆記も、自分のした講義の控《ノート》も、諸学者と往復した手紙も、あるいはまた金銭の収入を書いた帳面までも、王立協会に全部保存されて今日に残っている。
 リボーの店には、外国から政治上の事で脱走して来た人達が泊《と》まることもあった。その頃には、マスケリーという著名な画家がおった。ナポレオンの肖像を画いたこともある人で、フランスの政変のため逃げて来たのである。ファラデーはこの人の部屋の掃除をしたり、靴を磨いたりしたが、大層忠実にやった。それゆえマスケリーも自分の持っている本を貸してやったり、講義の筆記に入用だからというて、画のかき方を教えてやったりした。

     五 デビーの講義

 ファラデイの聴いたのはタタムの講義だけでは無かった。王立協会のサー・ハンフリー・デビーの講義もきいた。それはリボーの店の御得意にダンスという人があって、王立協会の会員であったので、この人に連れられて聞きに行ったので、時は一八一二年二月二十九日、三月十四日、四月八日および十日で、題目は塩素、可燃性および金属、というのであった。これも叮嚀に筆記を取って[#「筆記を取って」に傍点]置いて、立派に清書し、実験の図も入れ、索引も附けた。だんだん講義を聴くにつれ、理化学が面白くなって来てたまらない。まだ世間の事にも暗いので、「たとい賤《いや》しくてもよいから、科学のやれる位置が欲しい」と書いた手紙を、ローヤル・ソサイテー(Royal Society)の会長のサー・ジョセフ・バンクスに出した。無論、返事は来なかった[#「返事は来なかった」に傍点]。

     六 デビーに面会

 そうこうしている中に、一八一二年十月七日に製本徒弟の年期が終って、一人前の職人[#「職人」に傍点]となり、翌日からキング町に住んでいるフランス人のデ・ラ・ロッセというに傭われることになった。ところが、この人は頗《すこぶ》る怒り易い
前へ 次へ
全97ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
愛知 敬一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング