ん》に近江國《あふみのくに》が裂《さ》けて琵琶湖《びはこ》が出來《でき》、同時《どうじ》に富士山《ふじさん》が噴出《ふんしゆつ》して駿《すん》、甲《かふ》、豆《づ》、相《さう》の地《ち》がおびたゞしく震動《しんどう》したといふのであるが、その無稽《むけい》であることはいふまでもない。
つぎに允恭天皇《いんけうてんのう》の五|年《ねん》丙辰《ひのえたつ》七|月《ぐわつ》廿四|日《か》地震《ぢしん》、宮殿《きうでん》舍屋《しやをく》を破《やぶ》るとある。
次《つ》ぎに推古天皇《すゐこてんのう》の七|年《ねん》乙未《きのとひつじ》四|月《ぐわつ》廿七|日《にち》に大地震《おほぢしん》があつた。
日本書紀《にほんしよき》[#「日本書紀《にほんしよき》」は底本では「日本書記《にほんしよき》」]に七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破、則令四方俾祭地震神とあるが、地震神《ぢしんかみ》といふ特殊《とくしゆ》の神《かみ》は知《し》られてゐない。
要《えう》するに、このごろに至《いた》つて地震《ぢしん》の恐《おそ》ろしさが漸《やうや》く分《わ》かつたので、神《かみ》を祭《まつ》つてその怒《いか》りを解《と》かんとしたのであらう。
爾來《じらい》地震《ぢしん》の記事《きじ》は、かなり詳細《せうさい》に文献《ぶんけん》に現《あらは》れてをり、その慘害《さんがい》の状《じやう》も想像《さうざう》されるが、これを建築發達史《けんちくはつたつし》から見《み》て、地震《ぢしん》のために如何《いか》なる程度《ていど》において、構造上《こうざうぜう》に考慮《かうりよ》が加《くは》へられたかは疑問《ぎもん》である。
三 なぜ古來木造の家ばかり建てたか
論者《ろんしや》は曰《いは》く、『日本太古《にほんたいこ》の原始的家屋《げんしてきかをく》はともかくも、既《すで》に三|韓《かん》支那《しな》と交通《かうつう》して、彼《か》の土《と》の建築《けんちく》が輸入《ゆにふ》されるに當《あた》つて、日本人《にほんじん》は何《なに》ゆゑに彼《か》の土《と》において賞用《しやうよう》せられた石《いし》や甎《せん》の構造《こうざう》を避《さ》けて、飽《あ》くまで木造《もくざう》一|點《てん》張《ば》りで進《すゝ》んだか、これは畢竟《ひつけう》地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》したゝめではなからう
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