傍点]である。地震《ぢしん》が如何《いか》なる有樣《ありさま》に於《おい》て家屋《かをく》を震盪《しんたう》し、潰倒《くわいたう》するかを觀察《くわんさつ》し破壞《はくわい》した家屋《かおく》についてその禍根《くわこん》を闡明《せんめゐ》するの科學的知識《くわがくてきちしき》がなければ、これに對《たい》する防備的考察《ばうびてきかうさつ》は浮《う》かばない。
 古《いにしへ》の國民《こくみん》は地震《ぢしん》に遭《あ》つても、科學的素養《くわがくてきそやう》が缺《か》けてゐるから、たゞ不可抗力《ふかかうりよく》の現象《げんしやう》としてあきらめるだけで、これに對抗《たいかう》する方法《はうはふ》を案出《あんしゆつ》し得《え》ない。
 日本《にほん》でも徳川柳營《とくがはりうえい》において、いつのころからか『地震《ぢしん》の間《ま》』と稱《しやう》して、極《き》はめて頑丈《ぐわんぜう》な一|室《しつ》をつくり、地震《ぢしん》の際《さい》に逃《に》げこむことを考《かんが》へ、安政大震《あんせいだいしん》の後《のち》、江戸《えど》の町醫者《まちいしや》小田東叡《をだとうえい》(安政《あんせい》二|年《ねん》十二|月《ぐわつ》出版《しゆつぱん》、防火策圖解《ばうくわさくづかい》)なるものか壁《かべ》に筋《すぢ》かひを入《い》れることを唱道《しやうだう》した位《くらゐ》のことでそれ以前《いぜん》に別《べつ》に耐震的工夫《たいしんてきくふう》の提案《ていあん》されたことは聞《き》かぬのである。
 以上《いじやう》略述《りやくじゆつ》した如《ごと》く、日本家屋《にほんかをく》が木造《もくざう》を以《もつ》て出發《しゆつぱつ》し、木造《もくざう》を以《もつ》て發達《はつたつ》したのは、國土《こくど》に特産《とくさん》する豊富《ほうふ》なる木材《もくざい》のためであつて、地震《ぢしん》の爲《ため》ではない。
 三|韓《かん》支那《しな》の建築《けんちく》は木材《もくざい》と甎《せん》と石《いし》との混用《こんよう》であるが、これも彼《か》の土《ど》における木材《もくざい》が比較的《ひかくてき》貧少《ひんせう》であるのと、石材《せきざい》及《およ》び甎《せん》に適《てき》する材料《ざいれう》が豊富《ほうふ》であるがためである。
 その建築《けんちく》が日本《にほん》に輸入《ゆにふ》せら
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