たのである。
この目的《もくてき》のためには、賢實《けんじつ》なる[#「賢實《けんじつ》なる」はママ]石造《せきざう》または甎造《せんざう》の恒久的宮殿《こうきうてききうでん》を造營《ざうえい》する事《こと》は都合《つがふ》が惡《わる》いのである。
次《つ》ぎに持統《ぢとう》、文武《もんぶ》兩帝《りやうてい》は藤原宮《ふじはらぐう》に都《みやこ》したまひ、元明天皇《げんめうてんのう》から光仁天皇《くわうにんてんのう》まで七|代《だい》は奈良《なら》に都《みやこ》したまひ、桓武天皇以來《かんむてんのういらい》孝明天皇《かうめいてんのう》まで七十一|代《だい》は京都《けうと》に都《みやこ》したまひたるにて、漸次《ぜんじ》に帝都《ていと》が恒久的《こうきうてき》となり、これに從《したが》つて都市《とし》が漸次《ぜんじ》に整備《せいび》し來《き》たつたのである。
一|般《ぱん》民家《みんか》もまたこれに應《おう》じて一|代《だい》主義《しゆぎ》から漸次《ぜんじ》に永代主義《えいだいしゆぎ》に進《すゝ》んだ。
しかしその材料《ざいれう》構造《こうざう》は依然《いぜん》として舊來《きうらい》のまゝで、耐震的工風《たいしんてきくふう》を加《くは》ふるが如《ごと》き事實《じじつ》はなかつたので、たゞ漸次《ぜんじ》に工作《こうさく》の技術《ぎじゆつ》が精巧《せいこう》に進《すゝ》んだまでである。
それは例《たと》へば堂塔《だうたふ》伽藍《がらん》を造《つく》る場合《ばあひ》に、巨大《きよだい》なる重《おも》い屋根《やね》を支《さゝ》へる必要上《ひつえうじやう》、軸部《ぢくぶ》を充分《じうぶん》に頑丈《ぐわんぜう》に組《く》み堅《かた》めるとか、宮殿《きうでん》を造《つく》る場合《ばあひ》に、その格式《かくしき》を保《たも》ち、品位《ひんゐ》を備《そな》へるために、優良《いうれう》なる材料《ざいれう》を用《もち》ひ、入念《にふねん》の仕事《しごと》を施《ほどこ》すので、特《とく》に地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》して特殊《とくしゆ》の工夫《くふう》を加《くは》へたのではない。
しかし本來《ほんらい》耐震性《たいしんせい》に富《と》む木造建築《もくざうけんちく》に、特別《とくべつ》に周到《しうたう》精巧《せいかう》なる工作《こうさく》を施《ほどこ》したのであるから、自然《しぜ
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