ずして家康徳川《いへやすとくがは》といい、楠正成《くすのきまさしげ》と書《か》かずして正成楠《まさしげくすのき》といひ、紀貫之《きのつらゆき》と書《か》かずして貫之紀《つらゆきき》といふべきか。これは餘程《よほど》變《へん》なものであらう。
過去《くわこ》の人《ひと》は姓名《せいめい》を順位《じゆんゐ》にならべ、現在《げんざい》の人《ひと》は逆轉《ぎやくてん》してならべるといふが如《ごと》きは勿論《もちろん》不合理《ふがふり》であるばかりでなく、實際《じつさい》においてその取扱《とりあつか》ひ方《かた》に窮《きう》することになる。
この點《てん》において支那《しな》はさすがに徹底《てつてい》してゐる。如何《いか》なる場合《ばあひ》にも姓名《せいめい》を轉倒《てんたう》するやうな愚《ぐ》を演《えん》じない。
張作霖《てうさくりん》は如何《いか》なる場合《ばあひ》にも作霖張《さくりんてう》とは名乘《なの》るまい。李鴻章《りこうせう》は世界《せかい》の何國《なにぐに》[#ルビの「なにぐに」は底本では「なにぐは」]の人《ひと》にも鴻章李《こうせうり》と呼《よ》ばれ、または書《か》かれたこ
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