いう非常のときにも、学者らしい執着を忘れずに蒼|褪《ざ》めた顔をしながらいかにもそのひとらしく、こんな減らず口を叩く。
「なにしろ、わたしのような廉潔な老学徒を盗っとに誘おうというのですからねえ。発達的に言うと、たしかにこれは反省道徳が退歩しつつあるという顕著な実例になります」
「道徳のほうはどうでもいいが、それで、いったい、何を盗もうというんです」
 先生は、また嫌な顔色になって、
「そのへんのことは、どうも、はっきりしないんですが、……大体において、サン・トノーレ街あたりの金持の屋敷へ押込むということになっているらしいんです」
「それで、あなたは、どういう役をつとめるんです」
 先生は、臆病そうな眼ざしでチラとこちらを見上げて、
「窓を壊すほうはゴイゴロフという、わたしを誘ったやつがやるんですが、最初に[#「最初に」は底本では「最初は」]這《は》い込むほうの役は、わたしに振り当ててあるらしいのです」
 これは、たいへんなことになった。
 勅任官。文学博士。勲五等。五十七歳。身長一|米《メートル》五五。猪首《ししくび》で猫背で、丸まっちい、子供のような顔をしたこの小男の石亭先生が、泥
前へ 次へ
全31ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング