心を害《そこな》うことのない、もっとも聡明な方法で、当然、先生にひどい厄災《やくさい》を齎《もたら》すであろう危険な地区《カルチェ》から、それとなく追い立ててくれたのだった。
とても恍《とぼ》けているわけにゆかなくなり、われながら、少しばかりムキになって、
「すると、あなたは、つまり、石亭先生を……」
と、心からなる感謝の意を述べようとすると、カラスキーは手を挙げて、
「その後はおっしゃってくださらなくてもけっこうです。格別、何をしたというわけでもないんだから。……先生に対するわたしのひそかな尊敬と友情が、陰ながら、いくぶんでも、先生のお役に立ったとしたら、それに越した喜びはありません」
そう言って、ゆっくりと両足を踏み伸して、背凭のとれかかった古い籐椅子の中に沈み込むようにしながら、
「……わたくしもね……私もむかし、モスクヴァで、ベイエの道徳社会学を勉強していたことがあります。結局、ものにならなかったことは、この風体をごらんになればおわかりになるでしょうが。……ああ、しかし、あの頃の生活は私の生涯にとって、いちばん楽しい時代でした。……辛い勉強の間にも、私はいつも希望と理想に
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