っとしたことだが、いかにも別世界へ飛び込んで来たような、なんとも言いようのない頼りない気持を感じさせる。
 いつまでも尻込みをしていてもしようがない。ありとあらゆる勇気を非常召集して、グイと硝子扉を開けて内部《なか》へ入った。
 ひどい臭気と温気が微妙に混り合って、もうもうと立ち罩《こ》めている。赭土の土間の上には、青痰やら、煙草の吸殻やら、魚の頭、豚の軟骨、その他雑多なものが参差《しんし》落雑していて、ほとんど足の踏み場もない。
 いかに石亭先生の依頼とはいいながら、こういう上品優雅な環境のなかでこれから四、五日暮さなければならぬかと思うと、いささか分に過ぎるようで、なんとなく心のほてりを感じる。
 海象《モールス》の牙のような太いダラリ髭を生やした主人《パトロン》らしいのが、水浅黄の|油屋さん《タピリエ》を掛けてひとを馬鹿にしたような顔で酒呑台《コントアール》のそばに突っ立っているから、そのそばへ行って、ゴイゴロフというのはどいつだ、と訊《き》くと、ゴオルキイのような顔をした青前掛は、ニュッと大きな眼玉をむいて、
「てめえは、なんだ」
 と、叱咤した。
 オドオドしていたんじゃなめ
前へ 次へ
全31ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング