い。先生は世事に疎《うと》いほうだから、いっこう気づかれぬ模様だったが、ある時、その多少の諧謔《かいぎゃく》味のあるゆえんを説明すると、石亭先生は、やにわに膝をうって、
「それァ、いいですな。今度から、本郷バーと呼ぶことにしましょう」
 と、ひどく勇み立った。
 ちょうど夕食|刻《どき》で、悪しつッこい玉菜《キャベツ》の羹汁《スープ》の臭いがムウッと流れ出してくる。
 もっさりした棉紗のカーテン越しにおずおずと内部《なか》を覗《のぞ》き込んで見ると、ジメジメした土間にじかに食卓《テーブル》を置いた横長の部屋で、「望郷《ペペ・ル・モコ》」に出てくる悪党《フィルウ》そのままの、ゾッとするようなじだらくな恰好をしたのが二十人ばかり、何か大きな声で叫び交しながら、乱雑極まる食事をしている。
 いずれも鳥打帽の横ッかぶり。血腸詰《プウダン》やら、河沙魚《グウジョン》の空揚げやら、胎貝《ムウル》と大蒜《にんにく》の塩汁、豚の軟骨のゼラチン、犢《こうし》の脳味噌を茹《ゆ》でたやつ、……市中の料理店の献立表《ムニュウ》ではあまりお眼にかかれぬような怪奇なものを恐れ気もなく食っている。なんでもない、ちょ
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